これ 本当に大きな建物なんですが総木造建築なんですね。 ですから 本当に木のぬくもりが感じられる建物です。 「軒の教会」というテーマで 軒を一つ大きな意味合いと言いますかね建物の中心に据えた建物なんですね。 玄関から この向こうまでですねここが大軒でして日本の建物からだんだん軒がなくなっていってるっていう時代の中で 軒ってやっぱり人との出会いの場所だったんですね。
20数年 路上の人たちの支援をしてきたんですけども大体 路上で亡くなると7割8割が無縁仏 誰も迎えに来ない。 一旦 地域生活に入るとですねそれこそ9割以上の人が美白になってたりとかですねして。 ふっと見るとですねその部屋の中で 一人ぽつんと座ってらっしゃる その姿が炊き出しの時に 駅の通路でお弁当を持っていってたあの日 あの夜段ボールの上に ぽつんと一人座ってた姿 何も変わらない。
これも最初の頃でしたけども夜中にですね中学生が ホームレスのおじさんを襲いにくるっていう。 今でも襲撃事件全国で起こってますけども当時 それが頻発してましてで 大体夜中の1時 2時ですね。 それまで私ね 単純ですから中学生とホームレスって全然違うと思ってたんですよ。 日本最大の寄せ場日雇い労働者の町だった。 その時に 日雇いの労働者が「派遣法反対」って言ってチラシを刷って まいてたんですね。 ただ そのチラシにはですねこの法律は いずれ全国が日雇い労働者化する。
当初80年代 これが始まった時には就職支援であるとか アパート設定。 で 一番我々の この教会のコンセプトのベースにもなった厳寒の中 人々の命をつなぐ炊き出しです。 奥田さんが 初めてホームレスの現実に直面したのは学生時代 大阪西成区通称 釜ヶ崎での事でした。 まあ 釜ヶ崎は一番大きくなるのは 大阪万博それ以降 80年代 景気が良くなる中で どんどん肥大化して当時は多分 一日に仕事の量で言うと2万人分ぐらいの仕事が出てたと思うんですね。
で 僕 キリスト者だからその左翼も観念論者ですから人が どんどん死んでいって不条理でしかも 人をどんどん利用し使い捨てにしていくような社会が一方であってまあ そのあと北九州にいらしてですね実際に牧師としての道もそれからホームレスの方の支援もやっていかれるようになるんですけども。 せ~の!NPO法人「北九州ホームレス支援機構」の設立を決断。 佐賀バスジャック事件 西鉄バスジャック事件っていうのが起こる。
今は 実は 北九州市と共同でさまざまなプロジェクト やってまして14年間かかってましてその14年間のほとんどはですね市役所の大きな建物のすぐ脇でですね炊き出しを始めたんですね。 そこにですね 一人のその年の3月に自立をされた小倉駅で寝ていたホームレスだったんですけども浦野さんっていうですねもう当時60歳過ぎてましたけど「あなたたちは 去年の冬 12月私が駅で寝ていた時にその後 その日の夜から数日間この人の言葉がねすごく胸に残っちゃってですね全部やったのはこの人たちだっていうね。
一人一人に担当者がつき病気やアルコール依存 借金など体験者同士の助け合いも生まれていきました。 そんな中 NPOの理事長として多忙を極めていた奥田さんに牧師としての生き方を問われる出来事が起こります。 「大丈夫だよ」ってやるしかし そのあとに「しかし 我が思いではなく」その人自身の思いどおりになるっていう事ではなく神の計画 神の御心がなりますようにっていうこの部分の祈りの重要さを説かないまま 十数年やってきて。
キリスト教の聖書なり イエスが「行って貴方も行って 隣人になりなさい」っていう ひと言は牧師に向けられた言葉だけではなくってつまり 復活していく新しい命に生きるっていうあの軒の部分に シェルターが要る。 この施設は 自立支援住宅の機能を持つと同時に一旦 自立したものの高齢化などで一人暮らしが難しくなった人を引き受けています。 当時の北九州市は 今はですね北九州市は ホームレス状態の人も生活保護の申請ができるようになったんです。
イエスを主とし イエス・キリストに従い生きる事を約束しますか?あのバプテストリーの形についてはですね青年会の担当で 青年たちが議論をして提案したんですね。 人間の苦しみや悲しみ限界 不完全そういうものの場所に神が下る。 クリスチャンになるというのは 自らを栄光化していくんではなくって最も低みに置くという事。 そういう不完全な人間に対してイエスは 「隣人になれ」っていう課題を与える。