こころの時代~宗教・人生〜「父を問う−いまと未来を知るために」

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この番組のまとめ

で 関東大震災があった時っていうのは実は 世の中が割合 人間がいろんなアイデアを出し合ってこういう社会にしたらどうかという事を一生懸命 論じ合えた時代だったんですよね。 で 関東大震災 じゃあそういう社会的なムード空気を どういうふうに作用したかっていうと締め上げにかかるような空気に急速になってくわけですよね。 ですから 確か関東大震災から2~3年後に関東大震災をきっかけにする混乱の中でね相似的な反復を 繰り返しというものを やるもんだというふうに思ってるわけですね。

僕の記憶に残る父親がいわゆる 父親本来の人だったかどうか というのは戦後というのを過ごしたんだと思うね。 やっぱり 父親の記憶というのは自分の記憶に 父親の記憶をつなげて トータルとして生きた人間を くくりつけてね。 僕の父親も気が付くのはねある種のあるいは戦後の総括のしかた というか整理のしかたの類型なんだろうけれどもひと事のようになってるという事ですね。 父親が田舎の夕刊紙で自分の戦争時代というものを反省的にね書くなんてね難しいな というふうには思いますよね。

短兵急に自分に回答を求めてですよ自分は父親の世代の人間たちと違って仮定の話だから 答える事ってなかなか できないけれどもやっぱやらざるをえない作業でしたね。 その一心からかなり無理な事をですね使ってはいけない言葉なわけだけど「ツオ・リ・マア」という上海語の言葉なんだけどもその母子に対してみんな円を作りながらですねあるいは 罪の同心円といってもいいと思うんですね。

小津安の映画の静謐さというものお金払って 映画見に行ってあの時はなぁ しんどかったなぁみたいな形で自分の傷に 塩を塗り込んでくるような映画じゃ 絶対ないんだという思いで あの…あのニッポン美というのかな。 今も 自衛隊の観閲式ではこれが 今日のお話の私なりの一つのテーマだと思っているんですけれども歴史の中のですね 実時間自分とですね…自己と出来事を 客観視する事。 自分の思考の拠点を置くかというと前に戻りますけれども先ほど お話ししましたあの焼き殺された親子を思考の無限同心円の中心に置いて考えるわけです。