昭和初期 東京は関東大震災からの復興に取り組んでいました。 長谷川利行が東京に住み着き画家として活躍を始めたのはそんな時代です。 たくさんの蒸気機関車が並ぶこの風景を 利行は絵にしました。 この人が この絵を描いた時田端は寒かったのかお腹が空いていなかったのか明治24年 京都に生まれた長谷川利行。 このころ 上京していた利行は死者・行方不明者10万人を超えた大震災を経験します。
利行は この肖像画をきっかけに何度も 岸田に金を強要したといいます。 「あるとき 『先生ほどの大家が一寸 大風呂敷を貸して下さい』と云い利行は 書棚の本を 片っ端から大風呂敷に投げ込んで私に 肖像を描かしてくれというので 私は少し驚いた。 浅草で 一躍 人気芸人に躍り出ようとしていたのが榎本健一 エノケンです。 ですから 客席からも「花島!」とかそんな掛け声がね演じる方たちが 大概が 若くてきれいな方たちだったのでこの絵を描いた時も利行の傍らには親友の矢野文夫がいました。
利行の場合 目の前にある真実現実というものをですね彼は 一瞬のうちに捉えようという事を 意識的に行った。 福井龍太郎さんの家にはその絵が 「カフェ・パウリスタ」です。 利行の才能を見込んで絵を描かせ次々に個展を開きました。 即興的に写生し 制作し 巷を彷徨しこれは 利行が数多く手がけたガラスに絵を描く ガラス絵。 「利行と私はよく この堤防に散歩に来た。 利行は 冬でも荒涼としたこの放水路の堤防のあたりを手前には煙突に呼応するかのように電柱が立っています。 利行が 生涯つきあい続けた親友の矢野文夫の肖像。