家に押し寄せる記者たちの関心事は世界一 裕福だった芸術家の遺産の行方…。 2人目の妻ジャクリーヌはピカソを創作に専念させるために幼い子供たちを近づけなかったのです。 ヴォーヴナルグ城ノートルダム・ド・ヴィボワジュルー城ル・フルナス工房ラ・カリフォルニー荘…。 ピカソの子供たちは相続のためだけでなく20世紀の芸術のためにも詳細な資産目録を作る必要性を感じました。 映画監督を志していたクロードは鑑定直前のラ・カリフォルニー荘をフィルムに収めています。
当時 ピカソは彫刻家としては まだあまり知られていなかったため私たちは衝撃を受けました。 ピカソが生まれたスペイン南部 アンダルシア地方の人たちはそれは まるで 手足の延長のようなものだそうです。 スペイン南部のマラガで生まれ育ったピカソが9歳で初めて描いたのが闘牛の絵。 慣習に縛られない芸術家たちが集うモンマルトルのカフェで新しい時代の息吹をスケッチします。 ピカソの友人 カサジェマスが恋心を抱いた人妻のモデルでした。 ピカソがモンマルトルのバーで出会ったモデルです。
相手の名は アメリ・ラン 通称フェルナンド。 共に過ごした7年の間ピカソは フェルナンドを繰り返し描きアフリカに強く影響された独自のスタイルを確立します。 ピカソの芸術が特異な方向へと向かった時インスピレーションのもととなったのがフェルナンドでした。 フェルナンドは ピカソの初期の彫刻作品のモデルでもありました。 フェルナンドは ピカソが初めて本気で愛した女性であり芸術的革命の女神でした。 1912年 新しい恋人となったのはフェルナンドの友達 エヴァ・グエルでした。
ボワジュルー城のピカソ一家を撮影したこのフィルムはオルガを記録した 唯一の映像です。 ピカソが生きた時代は世界に深い傷痕を残したファシズムの台頭とも重なります。 1935年 新しい愛人になったピカソに ドラを紹介したのはシュールレアリスト運動の主導者で反ファシズムの闘士 ポール・エリュアールでした。 1937年4月 スペイン北部の町 ゲルニカが反乱軍の爆撃を受け母国スペインの悲劇に対するピカソの絶望感の大きさを物語っています。
彫刻と絵画のアトリエがありラ・ギャロワーズからは歩いていけます。 ピカソの大家族に新しく加わった パロマは1934年以降 祖国スペインに戻れなかった事があります。 そんなピカソが スペインに触れる事ができる手段の一つが闘牛でした。 自立心の強い フランソワーズは年老いた雄牛 ピカソをうまく おさえ込んでいました。 ピカソと別れてもフランソワーズは平気でした。 ピカソと愛し合い共に過ごすという経験から唯一 無傷で生き残ったのがフランソワーズでした。