ETV特集「境界の家 沖縄から福島へ・ある原発技術者の半生」

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この番組のまとめ

あの方向が第一原発です。 福島第一原発からは南へ7キロ。 やっぱり この海の近くに住んできたから沖縄・伊是名島に生まれた名嘉さんは第二の故郷となった福島で 原発の技術者として生きてきました。 名嘉さんは 1973年第一原発の工事を受注したこれが 富岡の事務所ですね。 GEを退社したあとは地元の下請け企業の親方として震災の直後 名嘉さんは東京電力福島第二原子力発電所の構内に入ります。 福島第一原発の事故は名嘉さんにとって衝撃でした。

名嘉さんたちGEの家族は第一原発の敷地内に原子力というのは夢のエネルギーだと。 福島第一原発の所長も務めた二見常夫さん。 ですから一番高くてですね一番耐食性のいい材料を使っていながら「Demonstration Reactor」じゃないかと思うほどですね初期のトラブルは苦労してやった事ありますね。 Hi! Are you OK?I’m here.今 何とおっしゃいました?いや….「あなたのプラントが最悪の結果になったよ」って。

戦時中 日本軍の飛行場のあった伊江島はアメリカ軍の猛攻撃を受けます。 戦後 伊江島の土地はアメリカ軍に接収され射爆場や演習場となります。 1950年代半ば 名嘉さんは那覇の沖縄水産高校に入学します。 1960年 アイゼンハワー大統領への抗議行動がもとで沖縄を脱出 日本本土へ渡ります。 その後 アメリカ船籍のスーパータンカーの乗務員となった名嘉さんに大きな人生の転機が訪れます。 もともと 船に乗る前にアメリカ海軍のサブマリンの原子力潜水艦に乗ってたんですよ。

1989年 第二原発3号機で明らかになった再循環ポンプの損傷。 名嘉さんは 3号機の中央操作室でこのトラブルに直面します。 トラブルは 振動によってポンプの部品の一部が破損し大量の金属粉がパイプを通じて圧力容器内に入り込んだというものでした。 名嘉さんは振動を抑えるためポンプ速度を下げて運転するよう東電側に何度も進言します。 資源エネルギー庁の調査結果によれば1989年1月1日原子炉再循環ポンプのモーターの振動が大きくなり警報が発生東電はポンプ速度を下げて運転を継続しました。