ダイアナも エリザベスと同じ地で育ったのです。 子供の頃のエリザベスは あまり勉強熱心ではありませんでした。 そのため 彼の弟であるエリザベスの父親が王位につく事になったのです。 そのため 孫のエリザベスには名門イートン校の副学長から憲法の個人授業を受けさせました。 第二次世界大戦中 父ジョージ6世の健康状態が悪化したため若いエリザベスが代わりに公務をこなしました。 21歳の誕生日にエリザベスが王女として初めて行った 演説の中で彼女は 「自分の全生涯を国民にささげる」と言いました。
スコットランドのバルモラル城での1週間のテストにダイアナなら 王室にとっていい事ずくめに見えました。 エリザベス女王は 初めて義理の娘と一対一で向かい合いダイアナの隠された一面を見る事になります。 ダイアナが女王を訪ねた時女王は 大抵バッキンガム宮殿で執務中でした。 私が思うに きっと女王は 自分がやってきたのと同じようにダイアナが 新しい環境に慣れ運命を受け入れると考えていたんでしょう。
レーガン大統領やチャールズ皇太子は かすみ注目は ダイアナ一人に集まりました。 この思いを受けて ダイアナは他の王室メンバーのように慈善活動に関わる事にします。 ダイアナは 自らの存在意義を慈善活動に見いだしました。 ハンセン病や 対人地雷の問題などで精力的に活動する彼女をマスコミも応援するようになります。 ダイアナは 夫チャールズと かつての恋人カミラ・パーカー・ボウルズの不倫関係に早くから気付いていました。 マスコミに感づかれる前に事実を知ったエリザベス女王はスキャンダルを避けるために手を打ちました。
それは10か月前皇太子夫妻の インド訪問中にタージマハルで始まりました。 インド滞在中 夫妻は別行動をとり観衆 つまりこの場合世界中のメディアに世界中で 大ニュースとなりました。 「王室は キスの写真で結婚が問題ない事を証明しタージマハルの件を忘れてもらおうとした」と。 エリザベス女王は ダイアナの 勝手な振る舞いに 憤慨していました。 これらの写真が出て以降皇太子夫妻の関係についてさまざまな臆測が飛び交います。
ダイアナ妃の不幸の責任は 王室とりわけ 夫チャールズ皇太子にあるとメディアが批判を始めたのです。 国民からの支持をめぐって王室広報室と ダイアナの戦いは2年間 続きました。 エリザベス女王は ダイアナのおかげで本当に苦労をしました。 ダイアナ妃には慰謝料 およそ1,700万ポンドと年間68万ポンドの手当が支払われ更に ケンジントン宮殿の居住王室専用機の利用宝石類を持ち続ける事を許され子供たちの共同親権も獲得。 36歳のダイアナは王室からは解放されましたが彼女の動向は相変わらず 注目されました。
ついには ドディ・アルファイドとの交際が始まり世界中のマスコミが集まってパパラッチが追いかけ回した。 ダイアナとドディ・アルファイドはパリのリッツホテルから出てきました。 午前4時ダイアナの死亡が確認されます。 ダイアナ妃の遺体が安置されていたセント・ジェームズ宮殿の周辺が静まり返っていたのを覚えています。 ダイアナ妃の死去が発表されてから国民は君主の言葉を待ち続けました。 世論調査の結果国民の3分の1以上がエリザベス2世の即時退位を求めていると判明。