こころの時代~宗教・人生〜「大拙先生とわたし」

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この番組のまとめ

そうした 二人の足跡を表す資料が展示されています「無」が 随分並んでるわけなんですけれども私が 大拙先生に最初に お目にかかった時には10代の 15歳だったんですけれどもそうすると 先生がこれ ニューヨークだったもんですからね英語でお話し下さるわけですね。 その時に 金子大栄先生と曽我量深先生とそれに鈴木大拙先生お三人で 講演会がどこか大きな会場であるという事で先生をお迎えに出たんですね。

まあ 久しぶりにここの鈴木大拙館にお邪魔してみましたら今 お訪ねしてるこのお部屋もすぐ そこに 「無」という文字がございますが仏教と「無」というのは 非常に関係が深いようでございますがそういう 「無」というのが 一番基本にある考えを持つ仏教を岡村さんは 恐らく日本に大拙先生と一緒においでになった頃は まだ仏教の事も あんまり詳しくご存じなかったんじゃないかと思いますが私の 今の思ってる究極なんですけれども最初に「仏は何か」っていう事が私 まだ10代の初め頃でしたもんですから仏っていうと 親が こう仏教会に

そうすると「他の生き物にないものが「意識っていうものは 美穂子さん何だろう?」っておっしゃったんですね。 ただ 意識も問題ですね はい。 そうすると その意識の…意識が どうしてこっちから こっちへ捉える理解するという事は捉える事じゃないかと。 全部 2つに分かれて初めて 意識というものが動いてるんだって。 私たちは 24時間意識の枠の中で動いてると。 これはもう ずっと後になって大拙先生が おっしゃった言葉だという事で岡村さんから教えて頂いた言葉にですね人間というのはこう 意識がある。

自己中心の考え方で焦点が当たるところは 無限のそれこそ 時空によって時間と空間の中で そういうものが運ばれてきてるという事に焦点が合った途端にもう自分の中心自分に都合のいい事しか考えないようなその意識の働きが働いてるからそれで現実に起こってる出来事と自分の持ってる問題の悩みというのがうまく調和できないもんだからそこで悩みが生まれるんだというような説明をされてたという事を伺って 「はあこれは 宗教というものの一番大事なところをおっしゃってるのかな」と思って受け止めているんですけれど。

さっきの 大本とか本来とか無分別というどっか別のところにあるんじゃないという事を外に探しに行くんじゃないってここに きちっと自分が生まれたオギャッと生まれた時に備わってるんだという事をね要は もう一つ 言いかえすれば大拙先生は 恐らく 「無心」とおっしゃると思うんです。

私が ほら アメリカですよこれはね アメリカにいる時に先生に 「みんな 男の人こう 修道院に入ってねお寺に入って修行するんだけれども私たち どうしたらいいんですか?何をしに行くんですか?」って聞いたんですね。 そしたら 先生が「何でもないよ 美穂子さん」って。 まあ 私たちみんな幸せになりたいし幸せって何かっていうの親鸞聖人のように「安心決定」ですよね。

私 びっくりさせられた事があるんですけども東海岸の 小さな大学だったんですけれども先生 講演をされるというんで大学生ばっかり「旧約聖書」のお話を持ち出されましてね。 そうするとね向こうの学生さんというのはそしたら大拙先生 間髪入れず何の問題も持たないでですねで おいしかったんですけれども実際は もう一度 それをあ なるほど はい。 自由であって 安心 頂いてだから もう一度 楽園…かじってみたらどうですかってそういう事ができた場面が 私はもう本当に忘れられませんですね。

この世に生きていく私たちがそれぞれそれこそ 掛けがえのない今を生きているというか生かして頂いてるという事に気がつくとこれはある意味では それこそ自由に生きる事ができるわけですしこの塀の向こう側の方には池があってその池を眺められる建物もあるわけですけれども説明を聞いてると これは「維摩経」のお経の中に出てくる維摩居士の 方丈に いろんな…。