こころの時代~宗教・人生〜 シリーズ 唯識に生きる 第2回「自分とは何者か」

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この番組のまとめ

唯識は 日々の暮らしの中で自分を客観的に見つめ心のありようを積極的に変えていく具体的な実践を説きます。 今日は2回目なんですが無著 世親ね 兄弟なんですがその人によって 組織形成されそれを7世紀の… ここに掲げてますね 玄奘三蔵がですねその法相宗が この日本には飛鳥・奈良時代に伝わってきて今では 興福寺で日本仏教のあらゆる宗派にとっての恩人なんですよ。 ここにね 自分の前にコップがあるとかね 憎い人がいるとかね非常識という言葉は あんまりニュアンスが よくないですからね。

その事を踏まえた上で今回のテーマなんですけれども今回は「自分とは一体何者なのか?」という事ですよね。 自分とは一体何かってねこれは やっぱりもう僕は 変な事 言いますが棺おけに入る一歩手前までね自分とは何かという事を考え続けていこうという事をちょっと そういう事を強調して言っているんですが。

今 出たようなお話はですね多かれ少なかれそれは ひと言で言えば全ての人々がですね自我執着心を持っていると。 自我執着心という事は常にそこに「自分が 自分が」という事がある。 その事がどういう差し障りになる…?「自」と「他」とを設定しその自と他との間にいろんな対立が起こってくるというですねその対立… 今自と他と言いましたが「他」の中には 人間だけじゃなくて自然の事もありますしねそれから まあ国々の事もありますしねいろんなものが 「他」の中に入ってこようと思いますが要は 根本的には自我執着心なんです。

結合した新しい身心と今度は最終的な真理真実が結合していくというつまり2段階があるわけですね。 その呼吸が いかに大切かという話がありましたですよね。 呼吸を通して心と体の橋渡しをする唯識の教えに基づくものでした見えますか?指と指の間が 広がっている気がするんですけどこれ 気のせいじゃないですよね。 ところが カギになる骨が実はもう一つあったのですそれは 背骨起点になるのが呼吸の吐いたり吸ったりするムチのように しならせて動かすというのですが…ここが動いてるんですか?この間に。

先ほど 自己を観察してみましたけれども 自分ってありましたか。 「小野」というお名前もそれも ただの名前記号にしか すぎませんし職業だって 何だって今の自分の体に何も備わってないじゃないですか。 でも じゃあ その肉体は小野さんなんでしょうかね?では 心だ と言っても心は自分か と言ったらそれを仏教だと「無我」っていう言い方をするんですが「我」が あらゆる問題を引き起こすわけですね。

意識してやらないで 自然に自律的にやってるものを自分のコントロールでできるようになるという事は一緒にできるイメージですね。 より親しんでもらって日常生活に どんどん生かしてもらいたいなと思うんですが仏教の教えって どうしても難しい哲学だったり何か宗教だったりって思う方 多くて特に唯識というのは 本当にお坊さんでも なかなか気軽に触れる事ができないような哲学教理というようなイメージがあって。

下の方にあるのが末那識と阿頼耶識と。 今 問題としていこうとするのは第7番目にある自我執着心である末那識ね。 その末那識が 寝ても覚めてもね専門的には恒審思量というんですが生死をするかぎりね生まれて死ぬまででもいいしまた 生死輪廻する間 ずっとこの心にですね付属して働いているというね。 ただ 末那識というのはですね深いところ深層にある心の働きでしょ。

その上ですね 煩悩の種子によって束縛された深層心という阿頼耶識ね 阿頼耶識の束縛を「麁重縛」といいます。 ちょっと難しい言葉ですが荒々しく重いね そういう束縛がだから相縛と麁重縛っていうのはこれは相関連してね相互因果関係でグルグルグルグル展開してるわけですよ。 唯識では それはどこで遮断すべきだって言ってるわけですか?それはこの図から考えていくならば我々は深層心は統御できないから表層心を統御していけばいいわけ。