「原爆スラム」と呼ばれた街は一体 どんな街だったのか?監督 深作欣二は敗戦直後を思わせる バラック街への強いこだわりを持っていた。 あちこちに見えるのは街の廃品回収業者が集めたスクラップの山。 地区の人たちは わりと こう「原爆スラム」と呼ばれていたのは広島市中心部の河川敷に1.5キロに細長く延びる基町 相生通りという地域。 相生通りにはどんな暮らしが あったのか?伊藤さんは 親の仕事を受け継ぎ今も 広島市の郊外で廃品回収業を営んでいた。 ピアノって結構 当時相生通りで持たれてる方って?おらんでしょうね。
子供らが 仕事 終わってピアノ弾いてそれ ず~っと 御飯 食べたあとお茶飲みながら見るのがおやじと おふくろの楽しみじゃったんじゃろ思うてね。 広島廃品センター うちですね。 うち広島廃品センター今でも これで やってます。 共同便所と共同炊事場じゃないけどそういうふうに してたからね。 両親が 子供を食べさせるためになりふり構わず始めた廃品回収業。 広島が 廃墟から復興し始めると次第に仕事の規模が大きくなり立派な鯉のぼりが誇らしげに風にたなびいていた。
そら 中には 金を持っとった人もおったじゃろうけどじゃけど みんな一生懸命働いてね土方人みたいな事して一生懸命 働いて。 みんな 一生懸命仕事しよったよね あのころね。 相生通りはどのようにして生まれたのか?その半年後にアメリカが撮影した映像には自分の土地を 持たない者も多かった。 そうした人々が河川敷に住み始めたのが相生通りの起源と言われている。 当然 被爆者も多くまた 朝鮮半島出身者も少なくなかった。
しかし 本来 復興が進めば不法バラックは減っていくものではないのか?その背景には 他の地域の不法バラックの 立ち退き問題がある。 原爆によって 甚大な被害を被った広島には当時 相生通り以外にも不法バラックがまだ数多く存在していた。 不法バラックの撤去状況が書き込まれている。 周辺の川で次々と バラックが取り壊される中唯一 相生通りだけが立ち退きを免れていた。 このクスノキの根元にバラックが建てられていた。 役所から立ち退きの要請があった時移転先として選んだのは同じ 不法バラックの相生通りだった。
増築を繰り返した田中さんのバラック。 広島の地元紙である 中国新聞に原爆スラムという言葉が初めて登場する。 原爆スラムという言葉を考案したのは当時 広島の市議会議員を務めていた仁都栗 司だという。 原爆スラムという言葉で原爆と バラック街を結び付けその特殊性を強調する事で不法バラックは 国の責任で解決すべきだと 訴えた。 その後 原爆スラムという言葉は行政文書の中にも広く用いられるようになる。 ここでは 原爆スラムが「都市計画実施上の最大のガン」であるとされている。
相生通りにおいても不法バラックの撤去に乗り出す方針がこの時 既に決まっていたからだ。 昭和40年代後半から相生通りの立ち退きは急速に進められた。 かつて バラックが立ち並んでいた河川敷はあれだろ あっこの住宅に詰められたいうの都市伝説みたいな話じゃない?でも そこだろ?そこそこ その住宅。 あっ そういう事?それは あれですか 例えば 親とか上の人から聞いた感じですか?いや そういうんじゃないけど都市伝説みたいなやつです。 都市伝説。