閑静な住宅街に 歌人の西川和榮さんをお訪ねしますありがとうございます。 ナンマンダブツを申せてかと思うて申さんの。 ナンマンダブツを申ささんとしてのおはたらきやね。 当時 6年生でしたから何でもが 見たい聞きたいっていう感じの時代ですから急に そういう田舎へ疎開してね珍しい事ではあったんですけどいやぁ 生活っちゅうのはこんなんしてナンマンダブツ申しながら生活するんやと思うとったわけね。
念仏申さん先に おこっただけで楽になってね息もしにくかったもんが楽になってありゃ~ すごいな念仏っちゃ すごいな。 今まさに出る その前やねあら 楽な なんと楽な申そうと思っただけで すごいな何っちゅうすごい ナンマンダブツやらとこうなったんね。 それから 「正信偈」は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」この2行でいいんやなとかねそんなして 毎日毎日苦しみながらというかね。
今のお話聞くと南無阿弥陀仏の阿弥陀仏とあるいは 帰命無量寿如来と阿弥陀仏は同じ事を表現なさってると思うんですがあるいはその そういう 仏でありあるいは その 法でありあるいは僧であり そういう帰依する対象は違っても結局は 大きな法の流れ仏さんのお仕事というのをどういうふうに実感するか自分の身に受けるか。
それを ちょっと話は「帰命尽十方無碍光如来」に及びますけれども最初は 天親菩薩がおっしゃったでしょ。 帰命尽十方無碍光如来。 尽十方というのは山も川も全部全てこの 尽くされていないものにまで尽くされる光が届いてくるさわりがない光 さわりのない光と言うけれども一番さわりのあるのは私ですから一番 光から遠いものにまで及んで下さる光やね。
だから やっぱり 煩悩があってこんな事では困るとかもっといい条件が来ないものかと思ったりするよりもそういう 思う自分は 一体どういう人間かというところをもう一度見直すといいますか自分自身がどういうものかというのを見るとその辺の受け取り方が変わってくるわけでしょうか。
こんだけたくさん ナンマンダブツの中にお徳があるっちゅう事あんまり知らんとね ナンマンダブツ申せば いい目になるとか ねえ…。 どうぞこうぞこんなんに しとくなはれうまい事いきますようにっていう事を願うんだと思うんですけどうまくいかん事がお慈悲なんやから私にとってうまくない事やなんと思う事がそういうお慈悲を初めて私に展開して下さってやねしかし ナンマンダブツが おのずとお出まし下さるからそしてまたこの五臓六腑60兆の細胞やっちゅうんやろここへ届くんやね。
ナンマンダブツが ちゃ~んとお出まし下さる。 どっちにしても ナンマンダブツや。 入るの嫌やけども嫌な心も出して頂いて ナンマンダブツ。 お徳という事を みんな もっと…ナンマンダブツのすごさ お徳そのナンマンダブツを申すようになってるんやから願われて ナンマンダブツを案じたまえしナンマンダブツですからもう全部 ナンマンダブツに… ねえ凝縮してるといいますかナンマンダブツありゃこそなんですけれども ただいかがな事にてありますでしょうか?」と聞かれたのね。