この句はですね「俳句甲子園」という毎年 松山でやっているイベントがあって全国の高校生が集まって5人1チームでディベートをして俳句の優劣を競うっていうそういうイベントに出された句なんですね。 今日は福君が来てくれるという事でちょうど 300年以上前 江戸時代の子どもが作った句というのを2つ 並べてみましょう。 これは どうしてこういう違いがあるかというとその芭蕉の弟子たちがどう 語っていたかというと嵐山の句は 子どもらしく見たものをありのままに言葉にしていると。
テトリスは 世界的に流行したブロックゲームなんですけど福君は 知ってますか?知ってます。 その テトリスのブロックに新宿副都心の辺りのああいう超高層ビルを重ねてるんだと思いますね。 夕焼けでシルエットになった超高層ビル。 非常に忙しく 仕事にそして 育児に懸命になってるというところが短い言葉でこの句では 夕焼けのそばに出た一番星がねまるで自分が主役とばかりに夕焼けを押しやってるっていうふうに言ったところ。
「台湾茶旅の夕焼奔放に」がすごい…。 あの~ 夕焼けの色に染まってるだけではなくてその匂い そして 手に触れるもの全てがっていうとこが何か ちょっとギリシャ神話のようでもあり何か すごく 普遍的な世界に届いているような気がしました。 季語は 主役でもあるんですけど脇役としても非常に名脇役として働いてくれるなというのを示していると思います。 この夕焼けの句においては「星一つ」の方が主役になってるんですけれど主役にしつつやはり 脇役の「夕焼」がこの一席の句 どう読みましたか?何か すごく…。