いまだ 第一線で活躍するチャップリンに対しイギリス・ロンドンの貧民街でチャップリンが誕生。 映画の技術が発明されたのはちょうど チャップリンとキートンが初舞台に立った頃でした。 1914年の ある日セネットは チャップリンを子供の自動車レースに送り込みました。 しかし 1915年チャップリンはセネットのもとを去り自ら メガホンをとるようになります。 それはチャップリンがいなければ他の芸人たちの作品も含めあれほど多くの喜劇映画は作られなかっただろうという事です。
義理の兄の出資でチャップリンの古いスタジオを買い上げ自分の撮影所を設立しました。 キートンはファッティ・アーバックルと別れ自ら映画製作を始めます。 これは短編のサイレントコメディーとしてオーソン・ウェルズの「市民ケーン」に匹敵する名作です。 チャップリンの体は3つの食い違いを抱え込んでいます。 広大な空間や巨大な機械蒸気船や列車など「警官騒動」という作品では町全体が彼を追いかけていました。 一方 チャップリンの映画には物語があります。 チャップリンの映画には鋭い批評が隠されています。
ハロルド・ロイドがすぐ後ろに迫っていたとはいえ基本的には チャップリンとキートンがどたばた喜劇の頂点に立っていました。 1921年以降 チャップリンの作品は長編映画に移行します。 初の長編「キッド」は笑いあり 涙ありのチャップリンらしい作品でした。 私はかつてチャップリンの撮影した映像をラッシュフィルムから編集した事があります。 チャップリンの「黄金狂時代」とキートンの「大列車強盗」。
そして 次の作品でやり玉に挙げたのはチャップリンと同じちょびひげの独裁者アドルフ・ヒトラーでした。 新しい世代の映画マニアたちはチャップリンとキートンの全ての作品を掘り起こして論争を始める始末。 キートンの熱狂的なファンは「ライムライト」の製作総指揮を務めたチャップリンに対しライバルの演技を 意図的にお蔵入りさせたのではないかと言いがかりをつけました。 「ライムライト」の完成後 当局によってチャップリンは アメリカを追われました。