「悪人正機説」などと 日本史の教科書にも出てきたりしますよね。 ところが 世間の人は普通『悪人でさえ往生するのだから往生しようとする人は一筋に 本願のはたらきを信じる心が欠けているから阿弥陀仏の願いにそってはいないのです。 ですから この本願のはたらきにお任せする悪人こそがまさに 浄土に往生させて頂く因を持つものなのです。 だからこそ 善人でさえも往生するのだからまして 悪人は言うまでもないというわけなのです」。
よくよく 自分の内面を掘り起こしてみるとそうですね 確かに何か 上手に他人に頼れる人と「俺だけで できる」と思い込んでる人みたいなので比べるとこれ 不公平じゃないか」と言ってるようなやつというのは善人じゃない可能性 結構高いよというか。 「死んで詫びろ ばか野郎」ってなってくるとその言葉遣いだけ とってもどうやったって もう これ正義側のコメントとして成り立ってないよねという。 「この親鸞も なぜだろうかと思っていたのですが唯円房よ あなたも同じ心持ちだったのですね。
親鸞83歳の姿を描いたと言われる肖像画。 そこには 親鸞の人生が大きく関係していました。 しかし親鸞は そんな彼らこそが救われる存在なのだと考えました。 鎌倉時代の百科事典に「塵袋」というのがあるんですがその 「悪人」の項目を見るとこういう猟師さんとか商いをしてる人というようなそういう 当時の抑圧された民衆の人たちを指しても使ったようなんですね。 親鸞からしてみれば仏の目から見ればむしろ そういう人こそ救うために阿弥陀様は いるという。