100分de名著 歎異抄 第4回「人間にとって宗教とは何か」

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この番組のまとめ

親鸞の時代ですら 阿弥陀仏への信心をめぐって現代を生きる私たちはこの宗教書をどのように受け止める事ができるのでしょうか。 「それは 常日頃 本願他力の真実の教えを知らないで過ごしている人が阿弥陀仏の智慧をいただきこれまでのような心のままでは浄土に往生する事はできないと知ってその自力の心を捨てて本願のはたらきにおまかせする事でありこれを回心というのです。 信心が定まったら 浄土には阿弥陀仏のおはからいによって往生させていただくのですから私のはからいによるはずがないのです。

「歎異抄」の後書き 後序には親鸞と法然のこんなエピソードが記されています。 ある時 法然の弟子たちと当時は 善信と名乗っていた親鸞との間でそれを聞いた弟子たちは猛反発。 「どうして 法然聖人の信心と善信房の信心が同じであるはずがあろうか」と詰め寄りました。 すると法然は…?「この源空の信心も如来からいただいた信心。 法然さんのグループには それぞれ自分の立場を主張する人がいて当時から 議論や論争が随分 あったようです。

そういうので今 例えば 僕にとってお笑いとか エンターテインメントとしてのおしゃべりみたいなものが僕にとっての宗教だとするならばそれを徹底的に突き詰めていく上でもしかしたら 阿弥陀様について考えるようになるかもしれない。 あれだけ宗教を拒否してた自分がああ こんな気持ちになる事もあるのかとかこんなふうに ものを見る事ができたりするんだなというふうになると これは「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらして立てられた本願をよくよく考えてみるとそれは ただこの親鸞一人をお救い下さるためであった。