親鸞の時代ですら 阿弥陀仏への信心をめぐってさまざまな考えが噴出したといいます。 恐らく それは 特定の教団の信者じゃありませんとか特定の神や仏を信じてるわけじゃありませんという意味の無宗教かと思うんですけど。 無宗教だ 無宗教だって言うんですけどお握りを 土足で踏めるかというとそもそも 人間の生活の中には宗教的要素があるというふうに考えるとすればじゃあ やっぱり あるなら一度 考えてみなきゃいけないんじゃないか。
ある時 法然の弟子たちと当時は 善信と名乗っていた親鸞との間で議論が起こりました。 「どうして 法然聖人の信心と善信房の信心が同じであるはずがあろうか」と詰め寄りました。 すると法然は…?「この源空の信心も如来からいただいた信心。 善信房の信心も 如来よりいただかれた信心です。 親鸞の意見に同意した人は信心というのは仏様からいただくものなんだから私の信心も お師匠の信心も一緒なんですという。
そういうので今 例えば 僕にとってお笑いとか エンターテインメントとしてのおしゃべりみたいなものが僕にとっての宗教だとするならばそれを徹底的に突き詰めていく上でもしかしたら 阿弥陀様について考えるようになるかもしれない。 みんなを救ってくれるために阿弥陀様は いるんじゃないの自分一人のためって言っちゃっていいのという気もしますけど。