事故から 30年余りが過ぎた…その中に 東日本大震災の遺族の姿がありました。 そんな丹野さんが御巣鷹を訪ねたのは健くんの母 美谷島邦子さんに会うためでした。 美谷島さんもまた 子どもを守れなかったという思いを当時 小学校3年生だった健くん。 夏休みに 自分一人で大阪の親戚を訪ね甲子園に行くのを楽しみにしていました。 美谷島さんと丹野さんをつないだのは 一冊の本でした。
翌日 美谷島さんを訪ねて東日本大震災の被災地のあちこちから 遺族が集まってきました。 集まった遺族の多くが裁判や事故検証を通じてここに新しい町ができてまた新しく多分 笑顔で戻る人たちがいる。 美谷島さんたちが立ち上げた遺族で作る「8・12連絡会」。 国や航空会社に働きかけ道さえなかった山を整備。 当初 航空会社は消極的でしたが美谷島さんの思いが形になったのは 事故から21年目の事でした。 機体の残骸や遺品を展示する施設が設立され企業の安全研修に生かされる事になったのです。
東日本大震災の被災地でもその記憶を未来につなぐための試みが続いています。 大川小学校では あの日地震発生から 50分ありながら逃げ遅れ佐藤さんの娘 みずほさんも津波にのまれました。 震災後 教師を辞めた佐藤さんはもしも自分があの場所にいたらどうするか。 「悲しみ」の記憶が 誰かの「学び」につながると実感した時でも 遺族という事は今日は佐藤敏郎さんと佐藤みずほさんに おいで頂きましたってあはははっ!あっ!今… たった今電話した。
でも 言われたら私はやっぱりもう一緒にはいられないなと思うし 主人も言ったら自分は家族でいられないっていう一線があるんで本音をまだね しゃべった事がない。 もうほんとに 逆に言えばこれは多分 どんなにしても消す事のできない炎みたいなもんで自分が助けてやれなかったっていうのは多分どんな言葉を言ってもそれは…自分の中で こう繰り返し繰り返し言ってる言葉なのでどんな否定をしても 彼女にはねなんていうのかな心には入っていかないと思う。