こころの時代 アンコール “ブッダ最後の旅”に学ぶ2▽自己にたよれ、法にたよれ

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この番組のまとめ

丸井さんの ご専門はインド哲学っていう事なんですがそのインド哲学というのはですねブッダ以前 仏教以前の インドの思想結局 ブッダ以前に花開いたウパニシャッドの思想というのがございましてこれが 一般にインドの哲学が まとまった形で始まったと言われております。

当時 輪廻思想を前提としながらさまざまな宗教家 思想家が自説を唱えるという中で 例えばそれは 自己の意思によって変える事はできないと宿命的に定まってるんだとこういう立場に立つ人たちも おりまた どのような形で自己の運命を変えていくのかという方法に関してはかなり厳しいですね…苦行と言われるような厳しい修行を経なければ達成できないんだとこういう考え方をとった思想家たちも ある中でブッダ自身も 有名ですけども厳しい苦行をしたうえで苦行を捨ててというそのうえで悟りを開くというこういうエピソードからも推察されますよ

さて そのアーナンダとの会話に戻りますけれどもここで「教師の握拳」握拳という何となく穏やかでない言葉が出てまいりましたけどこれ どういう事を言ってるわけですか?一見 握拳というと何か鉄拳制裁というかね殴るのかみたいな言葉に聞こえますけど そうじゃなくてこれは 握り隠すという事で私は 要するに握り隠すことは一切ないすべてを解き明かしたということをこの表現で 表現してると思いますけれどもただ ブッダが教師の握拳という表現を使う中では一方においては 隠すようなそういう風潮だったりあるいは そういう宗教指導者がい

この経典の今のところはもう クライマックスといいますか今の最後の言葉というのはブッダの遺言の一つというふうにブッダが亡くなる直前の教えではないわけですけどもブッダが明らかに自分の死というものを覚悟しこの 「自帰依 法帰依」自分にたよれ 法にたよれというこの教えはこの具体的な場面つまり ブッダが亡くなろうともう病にかかり 死をある種覚悟している中でこの流れの箇所をどう解釈するのかというのはいろんな取り方あると思うんですけどやはり私自身は自己に頼れという中には自分自身の努力によって自分の運命を切り開けと。

あるいは 後代になれば自分などと確かに 呼べるようなものはないんだという形でもって固定的に 何か自分という存在を捉えたりする事は結局 執着の原因だと 自分へのとらわれてしまうという事から自己という存在に対してはどちらかというと 否定的な見方。 アッタディーポー アッタサラノーという 「アッタ」という言葉がございましたけどこれは パーリ語で「自分」という意味で我執ですかね 自分への執着これを断ち切らなければいけない。

で それを離れて というそれを離れないと 自己にたよるという事にはならないという事を もう少し説明を進めていくと結局 自分にこだわっているような生き方をしていると結果的に しっかりした自分がつくられていく というですねたよれる自己を それをつくらなければいけないこの「自己にたよれ、法にたよれ」という言い方なんですけれどもいろんな言い方があるようなんですが 例えば割合なじみ深い言い方としては灯明という言葉を使って「自灯明 法灯明」っていう言い方もありますよね。