SWITCHインタビュー 達人達(たち) アンコール「なかにし礼×野村達雄」

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この番組のまとめ

当時 まだ28歳の野村がポケモンGOの開発指揮をとる事になったのだ。 僕は 一番ね ポケモンGOの成功と野村達雄の成功っていうのはそれが地図が動き始めたと思ったらすぐ ポケモンGOが出てきちゃったって事まるで前から計算して待ってたようなね神が与えたもうた偶然としか僕は もう思えないぐらい。 たまたま Googleの日本法人とポケモンのブランドを管理してるポケモン株式会社…石原さんのところが 同じビルに入っているんですよ。

それをちょっとずつ ちょっとずつ簡単なものから作っていって高校生くらいまでなった時には自分で ある程度動くような…そこで もう コンピューターにすっかり のめり込んでったのでそこから大学をコンピューター関係ですね情報処理っていうそういうところに入ってちゃんと 独学じゃなくてしっかり学ぶっていう事を始めるんですね。 それでプログラミングっていうものがあってプログラミングをしてこういうゲームとかって出来てるんですけれども…。 どうやってプログラミングっていうものが成立するのかというところが分からないんですよ。

これが 祖母の写真でその当時 取り残された日本人の3人なんです。 で 当時 引き揚げになって日本が敗戦になってその混乱の中で祖母が子どもを連れていて子どもを連れて逃げてた訳ですからなかにしさんは それがどういう…。 8歳の時一家は豊かな生活を求め父方の親類を頼って日本へ。 やっぱり この…中国の この村にいてももう 先が…未来が あまりないからって事でもっと いい生活を求めて 日本に出ていったっていう事ですね。 お父さんも お母さんも一生懸命…日本語が そんなにしゃべれる訳じゃないので。

僕も野村達雄っていう名前をもらう前は…そしたら シャンソンも より一層分かるようになってきてシャンソンが ますます いとしくなりのめり込んだ。 シャンソンの訳詞家として 順調にキャリアを重ねていた なかにし。 それでさ今度 また石原裕次郎から電話かかってくるんですよ。 ついては 礼ちゃんに全部やってもらいたいから…僕が黛ジュンという名前を決めて彼女の第1作の「恋のハレルヤ」が大ヒットして石原プロは大変な利益を出す訳ね。

ポップス グループサウンズから演歌まで手がけるジャンルは 幅広い。 相手が 僕にキャッチフレーズを付けようと思った時には僕は 別なとこにいると。 1938年なかにしは 中国・旧満州の地で造り酒屋を営む両親のもとに生まれた。 太平洋戦争の終戦間際人生を変える出来事が起こる。 多くの日本人が 祖国への逃避行の間に 命を落とした。 まず 一番怖かったのは8月11日の朝ね…僕の頭上を越えて道一本隔てた向かいの陸軍兵舎に落ちたという事から始まって。 その疎外感というか満州にいても 中国人がいる中に日本人としていて。

ある程度 年を取ってきたらこれは…ユダヤ人たちが イスラエルへ帰る事が決まった あの喜びは…我々は日本という国を愛したけどねなにも 愛されたくて愛したんじゃない。 その時にね いや これで…歌は いっぱい書いたけど僕が やるべき事はこのせっかくの戦争体験をしてきて物を書ける立場にあって。 夏目漱石を全部読み直して。 ヘミングウェーを全部読み直して。 そんな中 病床で書き上げたのがなかにし 最後の小説と銘打たれた「夜の歌」。