先生は大体 もう毎日 必ず原稿に?普通 普通に二日酔いでなければね何時ごろに起きる…?3時か4時ぐらい。 香炉に1本 線香を立ててそれで もちろん火を消して線香の火を見ながらこうやって ここで小一時間こうやって座ってるんですよここで。 それで 心房細動の不整脈の血管による不整脈によってですね。 その消化器系の病気ってのは絶えず鈍痛。 そういう消化器系の病気というのは実に重苦しい病気なんですよね。
そして今 改めてたどる鎌倉時代の親鸞と一遍の ひとりの思想。 「阿弥陀如来の救済のしかたっていうのは万人に注がれるはずじゃないんですか」ってそういう返答が必ず来ますよそれはね。 そういう その問いかけに対して逆に今度は また親鸞が「だけど 自分の問題として言えば他人の問題じゃなくて客観的な物言いじゃなくて自分の主体的な考え方としてはそれは阿弥陀如来の救済のしかたっていうのは自分に振り向けられたものだと俺は確信する」と。 「非僧非俗」っていうのは…自分自身の事言ってるわけですよね。
絵巻には各地の寺社を礼拝しながらあのね 一遍もまた念仏札を配ってどんな人間でもどういう状況下においても悪人でも それこそ善人でも全部救われるという事を言って説いて歩いた人ですよね。 しかも それは念仏一辺倒ではなくて伝統的な土着信仰 神仏習合の考え方。 親鸞の「ひとり」はね 必ずしも世俗との積極的な交わりはつまり 踊念仏を通して交わりながらですね彼自身は 徹底した捨聖の生涯を続けるわけですね。 だからそれより前の平安時代だとその一遍上人の先行者としては…空也上人がいるわけですよね。
今日でもその 今 教学的な世界ではやかましく議論してるわけですよ。 で その親鸞自身の事を考えれば推測すればですね 人間ですよ。 それでね それをその「法然上人のおっしゃる事ならばたとえ だまされても自分は構わない。 だけど考えてみるとですよ 法然は完全 完璧な持戒僧なんですよ。 南無阿弥陀仏と こう言えば。 そうすると 一見 対照的な性格みたいに見えるんですが今も山折さんは 体の許す限り日課の散歩を欠かしません。 平安時代の念仏聖空也上人ゆかりの寺です。 平安時代後期阿弥陀聖な姿ですね。
親鸞より 40~50年前の西行だっていうのが 私の判断なんですよね。 それから 時々は 高野山に登って修験的な仕事も したようだし社会福祉的なね 橋を架けたり死者の遺体処理の仕事なんかも芸術の美の世界 信仰の世界これ 一体になって彼は生きているわけでだから 吉野に行って桜の花をうたうとか伊勢神宮に行って神官たち相手に和歌の道を教えている。 親鸞 西行と横軸を決めるとね縦軸として 親鸞から芭蕉の道に一筋道がクリアーに見えてくる。
これが 西行の絵巻の中で一番印象的なんだよ。 これが 不思議に 西行絵巻の場合には 印象的だよね。 そしてね 先生ちょっと書かれてましたけど先生と奥様が どちらかが先に逝かれた時は 散骨ですか?まあね 大地に戻すと。 大地に戻すっていう事が まあ散骨の目的みたいなものでねその大地に戻す場所はどこだろうと いい。 銀座4丁目でもいいし本願寺の前でもいいしガンジス川でもいいと。 ゆかりのある思い出のある場所に振りまいて一握りずつ まいてくれればね誰も文句は言わない。 一握り散骨なの。 無一物無尽蔵の「無」。