こころの時代~宗教・人生〜 アンコール「生きる意味とは―ニヒリズムを超えて―」

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この番組のまとめ

市街地のすぐそばで 今も名産のシジミ漁が続けられています島根大学名誉教授で哲学者の松塚豊茂さんは西洋哲学を視野に 宗教哲学特に仏教の教えの意味を探究してこられましたその中心となったのは現代世界を覆うニヒリズム…虚無主義とその対極にある仏教の教えとの関わりでしたその探究の原点は 1945年陸軍幼年学校で迎えた敗戦でした。

これは きっと先生もご同感下さるだろうと思いますが自然科学をず~っと やってみたりあるいは 生命の起源というような事を「こういう本を読め」とか高等学校の先生から言われて全体というか 友達もそうでしたし考え方として唯物論に傾いていく自分というものがはっきり分かったですわ。 なぜ怖かったというと…実は その自然科学に偏っていくのを何とか食い止めたというのは小学1年生の時の先生。

世の中を嫌がるんだともう駄目だというそちらの方の考えが強いとかあるいは まあ キルケゴールだとか…ハイデガーなんかになるとちょっと変わってくるんでしょうけれどそのニヒリズムっていいますか虚無の世界に惹かれる人たちがやっぱり仏法にも関心を持ったというような話を聞いてるような気がするんですがその辺の 今のお話とその厭世主義なんかとは無という言葉あるいは空という字を書く空という言葉なんかも使われますけれどもこれはまあ仏法にとっては 大変大事な言葉だと思うんですがそれと この世の中が いわば無であるというふうな言

で 先ほど言いましたようにショーペンハウエルですねあれは まあ厭世主義です。 仏教を厭世主義と理解している。 多分ニーチェにも 仏教は厭世主義だというような考え方が詳しく言う自信はありませんけれどもニーチェの言葉を言えば「すべては虚しい」と。 だから ニヒリズムの中には相対的な目的に 相対的に関係するというところが多分 ニヒリズムに流れていると思います。 つまり 相対的目的に絶対的に関係しているわけですわ。

そのニヒリズムというのを突破する場合には我見と身見が一緒になって自分は こういうふうな人間でこういうふうに生きてるというようなそこのところを もう一つ超えていかなきゃいけないわけだと思うんですがそこのところは 仏法ではどういうふうに説明なさってるんでしょうか。 生きるという事を貫く絶対否定的なものですわ。 その絶対否定的なものの中で「生即不生 死即不死」とこういうのが言えるのはその絶対否定的なものが貫いてくると。

ニヒリズムというのはやっぱり 一面の真理を持っていると 僕は思いますよ。 ただニヒリズムだとか そういう線ですね。 例えば心理学者の言う自己というのはこういう形では すっかりちょうど道元禅師と同じ事ですわ。 もう 申し上げない事やが我々は普通 そういう生活を僕も 先生に会わなんだらそういう世界を送ってたと思う。 いわゆる仏教は 平等覚というからそこも抜け出てるはずやが現実に戻ってみるとそういう世界にいますな。