70年代後半 日本経済はそれまでの「重厚長大」から半導体や低燃費自動車などの「軽薄短小」へと 産業構造を転換。 戦後 日本経済の復興をさまざまな手段で支援日本をこう けん制した。 全米自動車労働組合は日本車ボイコットを宣言し「日米貿易摩擦」は政治問題に。 そして 日本経済の勢いを象徴するかのように打って打って打ちまくり阪神タイガースが初の日本一に輝いた85年。 その後の日本経済の行方を決定づける出来事がニューヨークで起きる。
未曽有の金融緩和により過剰供給され行き場を失った資産が不動産などの投機に回され地価が高騰。 ニューヨーク ロックフェラーセンタービルなどアメリカのランドマークである不動産一流企業を日本企業が次々と買収。 戦後の焼け野原から40年日本経済がまばゆい光を放った瞬間だった。 都心で始まった地価高騰は瞬く間に首都圏近郊に広がる。 地価高騰の裏では転売用の土地を確保するため悪質な地上げが横行。 国際的精密機器メーカーの経営者賀来龍三郎はこの地価高騰についてこんな言葉を残している。
しかし 戦時期に国家統制のため資金調達に銀行が介入し国がそれをコントロールする仕組み「間接金融」になった。 だが 80年代日本的 間接金融は旧来の役割を終えるべきだったのではないかと野口は言う。 高度経済成長を経て「生活必需品」が 多くの人々の手に行き渡ろうとしていた 80年代。 大型メーカーの既製品とは異なるDCブランドデザイナー主導の個性的なデザインは若者たちの熱狂的な支持を得た。