ドキュランドへ ようこそ!・選「ダイアナ妃VSエリザベス女王」

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この番組のまとめ

ダイアナも エリザベスと同じ地で育ったのです。 そのため 孫のエリザベスには名門イートン校の副学長から憲法の個人授業を受けさせました。 第二次世界大戦中 父ジョージ6世の健康状態が悪化したため若いエリザベスが代わりに公務をこなしました。 21歳の誕生日にエリザベスが王女として初めて行った 演説の中で彼女は 「自分の全生涯を国民にささげる」と言いました。 彼女の父親はしょっちゅう狩りに出かけたり1961年生まれのダイアナは寂しい少女時代を過ごしました。

7億5,000万人が テレビで見守る中ダイアナはチャールズ皇太子と結婚します。 ダイアナが女王を訪ねた時女王は 大抵バッキンガム宮殿で執務中でした。 ダイアナは 女王の 私的な謁見室の隣にある 控えの間で待ち最後の客が出ていくやいなや部屋へ駆け込みました。 私が思うに きっと女王は 自分がやってきたのと同じようにダイアナが 新しい環境に慣れ運命を受け入れると考えていたんでしょう。 ハリー王子誕生の2か月後エリザベス女王は 議会の開会式に同行するよう ダイアナを誘います。

ダイアナ担当の美容師リチャード・ダルトンが髪を 「フレンチプリーツ」というアップスタイルに セットしたのです。 タイム紙は 一面でダイアナのヘアスタイルを取り上げました。 このころ 既に バッキンガム宮殿ではダイアナが 意図的にマスコミを操作し自分の存在感を高めていると考える人が増えていました。 エリザベス女王はダイアナの前も後もマスコミとの つきあいは一切ありません。 レーガン大統領やチャールズ皇太子は かすみ注目は ダイアナ一人に集まりました。

ダイアナは 自らの存在意義を慈善活動に見いだしました。 マスコミに感づかれる前に事実を知ったエリザベス女王はスキャンダルを避けるために手を打ちました。 女王の希望に添い ダイアナは「幸せな一家」というイメージを何とか守り続けました。 それは10か月前皇太子夫妻の インド訪問中にダイアナは人を操る事に 長けていました。 「愛の殿堂」の前でひとりきりで写るダイアナの写真は世界中で 大ニュースとなりました。 エリザベス女王は ダイアナの 勝手な振る舞いに 憤慨していました。

ケンジントン宮殿に一人取り残された ダイアナは再び 精神が不安定になりました。 四六時中 パパラッチに追われ精神的に疲れ果てていたダイアナは1993年12月公務からの引退を発表します。 ダイアナ妃の不幸の責任は 王室とりわけ 夫チャールズ皇太子にあるとメディアが批判を始めたのです。 チャールズは 思いやりのある人物でダイアナは 仕事も生きる目的もない人間だというイメージを広めたのです。 国民からの支持をめぐって王室広報室と ダイアナの戦いは2年間 続きました。

エリザベス女王は ダイアナのおかげで本当に苦労をしました。 しかし ダイアナは ケンジントン宮殿に残りたいと言ったのです。 ダイアナ妃には慰謝料 およそ1,700万ポンドと年間68万ポンドの手当が支払われ更に ケンジントン宮殿の居住王室専用機の利用宝石類を持ち続ける事を許され子供たちの共同親権も獲得。 ダイアナは新しい恋人ドディ・アルファイドとこれ見よがしに人前に現れます。 ついには ドディ・アルファイドとの交際が始まり世界中のマスコミが集まってパパラッチが追いかけ回した。