こころの時代~宗教・人生〜シリーズ マンダラと生きる 第2回「密教のなりたち」

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この番組のまとめ

マンダラは 天上の仏や神々が降り立つ聖なる場所であり「こころの時代」では 毎月1回「マンダラと生きる」と題しましてマンダラに込められた仏教の智恵をご紹介しております。 シリーズで マンダラを解き明かしていくんですけれどそもそも マンダラはいつ頃 成立したんでしょう?これは なかなか難しい問題なんですが多分 インドで 5世紀頃にはまあ ほう芽期というか最初のかたちが出来たんじゃないかって言われてますね。 その密教とマンダラとの関係といいますと…。 密教にとってマンダラは絶対に欠かせない要素。

それから500年ぐらいたって大乗仏教になって更に500年ぐらい たって密教へと発展していくっていう。 初期型の仏教というのはですねとにかく 自分だけの力というか徹底的な自力というかしかも 完全に 出家をしなければいけないというそういうタイプの仏教だったんですよね。 ところがですね仏教が衰えた代わりといっては何ですけれどもヒンドゥー教というタイプの宗教が大きな力を持っていくという。

多分 歴史上のブッダという方はこの煩悩を否定するというところから始まったんだと思います。 初期仏教。 初期仏教そうですし大乗にもあるんですけれども。 全体 お堂の中でいろんなものが祈りとなって日常じゃなかなか味わえないというか これも多分宗教の持ってる非常に大きな力の一つだと思うんですが。 初期の仏教とか大乗仏教の中の半分ぐらいは寂静の道っていうんですね。

この火天っていうのはもともと ヒンドゥー教の「アグニ」と呼ばれている神様なんですね。 ですから あそこに明らかにヒンドゥー教出身の神様がこの中に?どこにいるんでしょう?胎蔵マンダラというマンダラの右上の隅の所に火の中のおじいちゃんみたいな形で描かれてる。 ちゃんと ヒンドゥー教の神様が弁才天。 日本化してますけど本はといえばインドの仏教ではなくてヒンドゥー教出身なんです。 普通 こう ヒンドゥーとか仏教…まあ 密教ですね。

密教の「密」というのはどういう意味を持つんですか?密教以前の大乗仏教を顕教って言うんですね。 最高の真理 ブッダの悟りの世界を言葉では表現できないけれどもシンボル 象徴では表現できる。 三密っていうのはからだ・身体ですね 言葉 心この3つの活動を三密と密教では言うわけでして仏をまねて まねてまねた果てに仏との一体って事を考えるんです。

ただ 問題は密教以前の仏教ですとね仏になる可能性があるとしても仏性があったとしても仏になるには膨大な時間がかかるよっていう設定だったんですよね。 それに対して密教の場合は先ほどの三密加持や入我我入という考え方を導入する事で今 生きている からだのままで今 生きてる時間の中で仏になる可能性があるって方向へ振ったわけですよね。

まあ 美しいきれいな土地を選んでそこを浄化したうえでマンダラを描いてその中を聖なる空間としてそこに神仏をお招きするとか。 マンダラそのものが聖なる空間でそこで護摩を焚いてるってここがまあ 重要なとこだと思うんですよね。 マンダラに必要な要素は みんなこの中にも入ってるわけですか?もちろん ちゃんとしたマンダラで規定がありますからそこから逸脱する事は許されないんですね。

仏画とマンダラはじゃあ どう違うんです?マンダラになると全体がシステムというかきちんとしたですね要するに 規律に基づいて全体が構成されてますけど仏画は そこまではないですよね。 密教の考える真理そのものがマンダラに表現されてるという事なんですね。 信仰の中心地スワヤンブーナート寺院はその存在自体がマンダラであると言われます。 内部の柱や壁には密教の仏の姿が描かれ空間全体がマンダラとなっています。