ドキュランドへ ようこそ!「カストロ VS ゲバラ」

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この番組のまとめ

名前は フィデル・カストロといいました。 カストロは 言葉巧みにゲバラの心をつかもうとしました。 そこに現れたフィデル・カストロは思想以上のものすなわち闘争の指導者だったのです。 カストロは ゲバラと違い 言葉を超えて行動に訴える人物でした。 1953年7月 若き弁護士 カストロはキューバのバティスタ独裁政権の打倒を目指しサンティアゴ・デ・クーバの兵営に武力攻撃を仕掛けました。 カストロは 15年の懲役刑を言い渡されましたが「フィデルと 夜を徹して語り合った。

ゲバラとカストロは反乱を起こすという考えで一致していたのであって政治思想を共有していた訳ではありません。 ゲバラの急進的な思想は革命軍内部の反共産主義者たちから批判を浴びました。 カストロは 彼らに「これは自由主義的な革命でありマルクス主義的な社会を目指すものではない」と約束します。 1958年の夏までに政府軍の大攻勢を退けたカストロはゲバラの部隊を キューバ島中央部サンタクララへと進撃させました。

カストロは 国内のナショナリズムを刺激しないよう共産主義者 ゲバラをハバナから少し離れたラ・カバーニャ要塞に移します。 カストロは 社会主義的な政策を信奉するゲバラに改革の実行を任せました。 側近との会合で カストロが「この中に 誰か 経済の専門家はいるか?」と聞くとゲバラが手を挙げました。 カストロは「そうか君はエコノミストなのか」と言うとゲバラは「コミュニストと聞き間違えた」と言うのです。

カストロはソビエトと他の社会主義諸国から1日当たり100万ドルを受け取りました。 カストロの現実的な政治手法とは対照的にゲバラは 理想とする社会主義国家の実現を目指し国民にも意識改革を求めました。 カストロは フルシチョフが自分の意見を聞く事もなくミサイルを撤去した事に激怒しました。 現実主義者のカストロはソビエトに盾ついても勝ち目がない事を悟りましたがゲバラはあの事件がもたらしたインパクトをうまく消化できなかったのです。 ソビエトに ゲバラが距離を置く一方カストロは初めての訪問を果たしました。

カストロがゲバラとの絆を断ち切る上でどんな圧力があったのかは分かりません。 程なく カストロは ゲバラを拘束しセキュリティー・ハウスと呼ばれる秘密の場所へと連れていきました。 こうして カストロはゲバラという存在を排除したんです。 ゲバラが 最高司令官であるカストロを批判した事などかつて あったでしょうか。 カストロは ゲバラの別れの手紙を本人の承諾もなく公の場で読み上げました。 ここでもまた現実主義者のカストロはゲバラに対してむごい仕打ちをしました。

ゲバラの政治生命を絶つと同時にカストロは 革命家としての神話を作り上げました。 ゲバラは 生まれ故郷のアルゼンチンに戻りたかったのですがカストロが許しませんでした。 カストロは ゲバラに ボリビア共産党の支援を約束していました。 カストロは 音信不通のゲバラのもとに若いフランス人で レジス・ドブレという哲学の研究者を送り込みました。 1967年5月のメーデーカストロは ゲリラの時代を宣言しソビエトの我慢が限界に達しました。