自分の事をネガティブにしか書いたものしかないとかテレビとか そのそういうメディアにもなんか気持ち悪い人っていうような なんかこう…そういうジャンルとしてしか扱われてないのを見続けててそういうものを押しつけられてる感じもあったからだからなんか はねのけたいみたいな気持ちもあったのかも。
一番はやった かつてのフラフープ以上の はやり方でございます1961年 都内にある国立大学の附属中学に進学したタックさん。 孤独から抜け出す手がかりはないか?性的マイノリティーに関する記事を読みあさる中でタックさんはある考え方に出会います。 自らのセクシュアリティーを受け入れ明るく誇りを持って生きる…。 これは あの「薔薇族」が創刊して5年目にこれをきっかけにレズビアンをはじめ多様なセクシュアリティーに向けた雑誌も次々に創刊されるようになります。
そして 一緒に暮らし始めなんか だんだんあれ? あのグリニッチビレッジで見たあれ きてる感じ? みたいなそんなふうに思いました。 そこで 当時の常識を破り自身が同性愛者である事を公表。 一番最初に僕が すごいびっくりしたのは好きとか嫌いとかという事の次に生活が来るんだよっていうのをすごい言われた時期があって。 エイズウイルスは感染力が弱く…アメリカで広まっていたエイズが日本でも確認されます。 十分な情報や知識がない中同性愛者に患者が多かったとしてゲイを中心に 差別や偏見にさらされるようになります。
この時期 雰囲気を一新した「薔薇族」の表紙。 日本を代表するイラストレーターの一人…今や 世界の共通語にもなった「カワイイ」文化の先駆けとも言われる人物です。 表紙を手がけたのはルネにとっての実質的なカミングアウトだったといいます。 90年代に入ると自らのセクシュアリティーをオープンにしようとする動きは更に広がっていきます。 編集を担当した…大学時代 自分がゲイである事をごく自然に語る友人たちと出会い衝撃を受けたといいます。
この団体が 運営主体の東京都を相手取って起こした裁判では…そして 1994年記念すべき出来事がありました。 その中には レズビアンやトランスジェンダーなど多様な性を生きる人たちの姿がありました。 いわゆる性的マイノリティーLGBTである事を友人たちに知られ自殺した大学院生の両親が大学などに賠償を求めました。