過緊張である事で痛みは強くなるしでも 最初から最後まで笑っておればいいかっていうとそうじゃないんですけど。 ご本人たちは 大変な深刻な時間を迎えておられるのでにもかかわらず笑うといってもですね非常に謙虚でないといけないという事は分かりつつそうしたらですね嘔吐をされるんですけど終わったあとに 最後にですね間違ってウォシュレットのボタンを押してしまったというんですよ。
治療に追われる日々の中で募ってきたのが自分が死を迎えようとしている患者の本当の支えになっていないのではという疑問でした。 53歳を迎えた時 徳永さんは患者一人一人と その家族にじっくり向き合う治療を行いたいと診療所を開いたのです。 近代国家っていうか 近代技術を獲得した この国ではですね病気の場合だと みんながベルトコンベアーに乗せられるっていう感じがするんですね。 なんか みんなが ただベルトコンベアーに乗っとればなんか社会が それなりにポンポン ポンポン はじいてくれて…。
で また そう話しながら思い出したんですけど「尊厳死を 尊厳死を」って言う患者さんがいたんですね。 「どっか痛いとこありますか?」と聞いても「尊厳死を」って言う。 「何か食べたい物…」「尊厳死を」って なんか。 「尊厳死を」 食べるんかいなと思うぐらい。 今も はやりますけど安楽死をとか 尊厳死をという1の言葉で。 で おばあちゃんに 「本当に尊厳死しか言わないですか?」「おとうさん 尊厳死しか言わんのです」って言ってて。 「ユカ」って言ったので尊厳死以外に言葉があるって初めて その時 気が付くんですよ。
だから 生きて元気な サラリーマンの時だけが人間というわけじゃなくさまざまな老いて認知症になった時もそれは人間じゃないのではなく人間でいろんな時期の いろんな姿を実は みんな持っているという感じがあってですねそういう意味で 死っていうのもその全体の中の一つの姿ですからあぁ そっか 今まで はねのけてなるべく 健康で生きてる人間を正しい姿としようとして死を 外そうとしてたかもしれないけどその時 もう一つ 死は豊かと思ったのは そういう事が…まあ 死の発見っていう言い方するとオーバーですけど あったしそれから
その時の表情とか言葉とか心の動きがですねやっぱり大変ではあるんですけれども真実感があってですね それは見事だなというのがありますね。 患者さんが ここに来られて前いた病院の先生にねこれは 胆のうがんの肝臓浸潤で末期であるからその方は60ぐらいの方でしたかね。 で だんだん弱っていかれて看護師さんが訪問看護でも入っててトイレも難しくなったりするような時でした。
最後にタオル3本を 「私が代わります」って 看護婦さんが言って台所に行って ガスをバンと出して熱いお湯が出るようにしてその患者さんが 「気持ちいい~!」って言ったんですよ。 患者さんが いろいろ病んで 老いてがんの末期を迎えて亡くなるという時に最初の手術とか抗がん剤は 医療医者たちがやるっていうのをcureっていうの まあ決めがちなんですけどそういう時に そういう現実が確かにありますね。
看護にしろ 介護にしろあるいは 在宅の医療チーム意外とあるんですよね。 痛みについても病院では これぐらいの痛み止めが必要だったのになんかちょっと少なくなってるっていうの多くの在宅をやってる医療者たちが口をそろえる事で「何で?」っていうふうに言いますね。 それから 医療機器の人たちっていうふうにさまざまな医療器具とか資源を使う事ができるようになったんです。
じゃあ 在宅の 家での死こそがほんまもんの清く正しい高価な死ですかっていうとそういう問題じゃないだろうっていうふうにくるとですね私は あの… どっかで自分の中である病院であれ ホスピス緩和ケア病棟であれ在宅であれ 診療所であれその死についてですねランクを付けるまあ 誰も付けてない私だけ 付けてるんだと思うけどもそれは等価 等しい価値というものではないか。
お母さんが あぁっとか言うのでちょっと待ってよ「看護婦さ~ん!」って自分が看護婦さん 呼んだと。 看護婦さんが来て 取ってもらってあれから楽になった。 解決もできず 解明もできず。 だって 他は全部 近代科学で解決へ解決へ というふうに導こうとするんだけど 根本は解決はないんじゃないかという事。
でも そういう人であっても 体の状況によって最期の時が来ると自分がしようと思ってできる呼吸じゃないんですけど…といって顎を使ったりこの辺の筋肉使ったり。 それを生きようとして というよりも死への旅立ちの呼吸みたいに思えてですねそれを その人の意思ではなくてその 宇宙が持ってる表現のしかたとしてそういう呼吸をされてですねその時を迎えていかれるんですよ。