やっぱ 本多正信かなぁ。 本多正信…。 ここ一番の戦で あえて武功派を逆なでする発言ででも 正信は 嫌われ続けた事で自分の立ち位置を確保したのです。 岸見さんは 嫌われる事を恐れなかった本多正信からどんな知恵を導くのでしょうか。 岸見先生 どうぞどうぞ。 うわさしてた?うわさの岸見先生。 ほぼ今 現代生きてる特に社会に出てる お父様方会社組織の中にあったらなかなか これはね~。 さあ そして小和田先生 本多正信嫌われ者ですけれども嫌われ的な人物は。
そんな ふつふつとした思いを抱えていた正信のもとへ正信は 三河に戻って家康に詫びを入れ再び 徳川家の家臣として召し抱えられます。 ずっと 家康のために槍働きをしてきた武功派の家臣たちにとって正信は主君に刃向かい 敗れたのに生きて帰ってきた恥知らず。 それを聞いた 武功派の家臣たちは家康の身を案じて避難するように進言しますが正信は こう言い放ちました。
勇気要るし ただ 先ほどの作戦の前も 今は あえて攻めずそして 向こうの いろいろね二手三手先を読んでるよね。 ようやく 先ほどのVTRにもありましたけど天正10年の 武田の家臣たちを徳川軍団に抱え込むその仕事を与えられた時に能力を発揮するわけでしてそれをむしろ家康にアピールしていくそういう生き方をしたと思います。 そうですね 成功体験があってしかも…爆笑をとろうと思ってやってるんですけどどうしても お笑い偏差値が低いんでしょうね。
野球で また例えもあれだけど監督の横の参謀ヘッドコーチみたいな感じもしますけどね。 やっぱり そのチームの顔といったら 監督ですけどそこまでいかず ヘッドコーチ参謀的な感じで作戦の方は… みたいな 何かイメージもありますね そういう。 また石田三成は いつか参謀 ヘッドコーチを経ていつか監督になりたかったみたいな そんな感じかな。 この時 正信はまだ湿地帯だった江戸に町を建設する監督役を任されます。 更に 「関東総奉行」として後の江戸幕府につながる組織の骨格を作り上げたのです。