摩藩崩壊の危機の中久光は 兄 斉彬とは異なる方法で組織をまとめます。 激動の時代摩を率いた久光の姿にその知恵を読み解くのは経済界の革命児 宮内義彦さん。 宮内さんは 久光の手腕をどう評価するのでしょうか。 もし平時であればカリスマのあとは カリスマのやってこられた事をですね「さて 斉彬だったらどう思ったどうしただろうなぁ」というような事を考えてる余裕がないわけですから久光の働きってすごく大きいわけですよね。 久光は 斉彬に呼び出され遺言を伝えられます。 久光を高く評価していた斉彬。
改革に懐疑的な者もいると考えた斉彬は自分とは違う久光の能力を高く評価し摩の行く末を託したのです。 その動きに危機を感じた 急進派の大久保利通と西郷隆盛たちは不要だと訴えたのです。 保守派と急進派それぞれが納得できる ギリギリの落とし所を提示したのです。 久光は 再び藩を一つにするため急進派が納得できる落とし所を模索。 これは急進派に対し久光の意図を伝える文書。
意見が違えば 大体その3倍ぐらいは かけないとねなかなか集約できないんじゃないかなというのは経験則として ありますね。 お互い理解し合って…日本人は 意見が違うとけんか別れになっちゃうんですね。 当時 日本はアメリカの圧力に屈して横浜など 開港はしたものの意見は分かれていました。 幕府の重鎮 一橋慶喜をはじめ有力な大名が出席。 それまで久光たちと一緒に協力して幕府を もり立てようとしていた一橋慶喜と久光たち 有力大名たちの間で…この事が 幕末の風向きを大きく変えていく一つともいわれています。
「久光公は 今回の突然の廃藩命令については全て 西郷と大久保の独断から行われたものであって自分は全く相談にあずかっていなかった」。 久光は 本来の学者気質を生かし日本の歴史 全22冊の編纂に専念していたのです。 日本の古きものも大事にするという久光の様子 態度がこういう出版物にも表れていまして。 日本の歴史の編纂 この作業が明治維新と言いながら 革命的な事だったと思うんですけれども。