先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「失敗の理由はKY?源義経(後編)」

戻る
【スポンサーリンク】
22:16:48▶

この番組のまとめ

そんな義経の失敗を読み解くのは…1978年 ドラフト3位でロッテオリオンズに入団するとみるみる頭角を現し三冠王を通算3回獲得。 しかし この華々しい勝利は義経失脚の序章でもありました。 戦いの数か月後兄・頼朝は 義経に対し怒りをあらわにしています。 特に 平氏の存在を苦々しく思っていた時の権力者・後白河法皇は義経を 殊の外 高く評価。 いくら 弟であっても主君の自分に…頼朝は 平氏追討の総大将もう一人の兄弟 範頼にこんな書状を送っています。

あの 先生 今駆けつけ一杯じゃないですけど早速 駆けつけ質問ちょっとしたいんですけれども今ね やっぱコミュニケーションがちゃんと お互いの意思疎通が図れてなかったんじゃないかっていう話もあったんですけれども。 まあ意思の疎通については 頼朝の持っている戦略的な構想と戦争から 平和になった時の戦後処理を どういうふうに転換していくのかという事を頼朝は 真剣に政治構想として持っていると。 例えば義経なんかが 頼朝に無断で官職に就くなよと。

だから 僕はあの頼朝と義経の関係に関しては戦うという その行為の中では結局 頼朝と義経って年の差は いくつあるんですか。 景時は 実務能力に優れ頼朝から 最もあつい信頼を受ける武士の一人でした。 平氏追討では 義経の下義経は この景時と度々衝突し自らの立場を更に追い込んでいったのです。 逆櫓?景時は 船に逆櫓をつける事を義経に持ちかけました。 度重なる 義経の仕打ちは景時にとって大いに不満が残る事でした。

何かねもう 分かってはいるけれど義経は もちろんその二つの側面があってまあ指揮命令権者としての立場と。 ただやっぱりね 梶原景時は義経を補佐しつつそれについて 鎌倉殿の代わりに助言する立場というのを梶原景時は与えられてるので。 そういう意味からいうと景時から見た時の義経の行動というのが一兵卒と同じように戦ったりなんかするのはやっぱり 本質的に性格の問題もあるでしょうしね。