こころの時代~宗教・人生〜 アンコール▽生きる意味とは―ニヒリズムを超えて―

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この番組のまとめ

その中心となったのは現代世界を覆うニヒリズム…虚無主義とその対極にある仏教の教えとの関わりでした親鸞の教えに出会います今も現代を覆うニヒリズムとそれを超えた生きる意味についてお話を伺います自分で自分の命を縮める方が結構いらっしゃるようですけれども考えてみると私たち人間というのは皆さん 生まれた時には「死ぬ」という事が運命づけられて生まれてきてるというような事で 何もしなくても死ぬ事は決まってる…。

これは きっと先生もご同感下さるだろうと思いますが自然科学をず~っと やってみたりあるいは 生命の起源というような事をなぜ怖かったというと…実は その自然科学に偏っていくのを何とか食い止めたというのは小学1年生の時の先生。 ところが小学校1年生のとこ行って僕一人だけ憎いのかしらんと思うた 先生が。 小学校の先生でしょ。 結局 そういうものが小学校の先生からそれから もう一つ終戦が… 戦争に負けて。 この 西本誠哉先生を招待して…泊りがけで来ておられた。

で 当時の京大の宗教学には西谷先生と武内先生同じだろうけどもつまり 考えるという事と信仰という事が非常に深い 考えるという一つのとこから出ていると。 あるいは理解し合えるようなものはそのニヒリズムっていいますか虚無の世界に惹かれる人たちがやっぱり仏法にも関心を持ったというような話を聞いてるような気がするんですがその辺の 今のお話とその厭世主義なんかとは全然違う世界のように思われますがその辺はどうだったでしょうか。

という事は ニヒリストというのは…そのニヒリズムというのはだから マルキシズムだとかあるいは ヒューマニズムだとか何とか♪~関係ないわけじゃないわけですね。 で その曇鸞大師の「浄土論註」に…そういう体を受けるとかこういう言葉がありましてで 身見ちゅうのはこの体の事ですからいわば 見られるもの受動的な意味がありますがこれに対して 我見という中身は同じ事ですけれども自分の体を自分で見ると。

本当の生や 本当の死があらわれてくるのは今の言葉を言い返せばニヒリズムを通り抜けるとそういうところでこういう事が明らかになる場所です。 例えば 道元禅師は…我々 考えてる生だとか死だとかいうものは結局 人間というのはだから 現代人は 多分考えるという事で計算という事しかその絶対否定的なものの中で「生即不生 死即不死」とこういうのが言えるのは生死即涅槃として現実が現実としてあらわれてくるという事でございますから。