SWITCHインタビュー 達人達(たち)「奈良岡朋子×勅使河原茜」

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この番組のまとめ

奈良岡はその小林トシ子と大の親友だった。 ねえ 話 違うけど…そうですか? 今… 今ですか?♪~新宿で開かれた 奈良岡の朗読劇。 奈良岡は たった一人で1時間以上 語り続ける。 原爆による黒い雨を浴びためいの矢須子と「グラグラと煮えくり返る湯のように中から中から沸き出しながらたけり狂って白い虹ではなくて 五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ。 実際 そのころは 奈良岡さんはおいくつぐらいだったんですか?原爆が落ちた時ですか?原爆が落ちた時は8月6日だから私は疎開してたの。

勅使河原の母 俳優の小林トシ子と大親友だった奈良岡。 昭和4年 東京で生まれた奈良岡朋子。 翻訳劇っていわれると私は その当時新派と歌舞伎しか見てなかったんです。 翻訳劇っていうのは何を参考にすればいいのかって先輩に聞いたら民衆芸術劇場っていうのが翻訳劇やってる。 「たくみと恋」っていうのやってるからそれを見に行けば参考になるだろって言われてパンフレット見たらば滝沢 修 宇野重吉 清水将夫そうそうたるメンバーの…出てるわけですよ その芝居に。

その第一期生として俳優人生をスタートさせた奈良岡。 でも 「イルクーツク物語」って翻訳劇で宇野さんの演出に出会った時には…紅茶飲むっていうのでも「飲み方が違う。 奈良岡さんとして目標にされていた方とかは?仲間とか先輩とかいらっしゃるんですか?私 あんまりね そういう先輩とかあの人にとかって憧れるとかってことがないんですよね。

80代後半になっても舞台に立ち続ける奈良岡。 そういう時ってどういう研究をするんですか?あのね 役者の妙味っていうのは自分の人生は一つだけどすっぴんで座ってお化粧 始めるんですよ。 「お前 役者やってて芸術家だと思うか?」って言うから「そりゃそうでしょう」って言ったら「俺は 自分が芸術家だと思ったことない」って言うんですよ。 何十年も 絵 描いてきていろんな審査員とか会を自分でやっていながら芸術家と思ったことない。

なので 何か その時 その時でその人がアイデアを持って 楽しく…さっき 奈良岡さん おっしゃったようにユリ 一輪でもいいから初代家元の蒼風と交流があったという。 私は よく砂土原町のおじいちゃまにかわいがって頂いててよく遊びに行って 遊びに行くと岡本太郎さんや何かがいてねもう侃々諤々なんですよ。 蒼風さん おじいちゃまに 奈良岡朋子の「朋」っていう字を書いて頂いてそれをつづれの帯にしてとかね今でも大事に持ってますけどね。

草月に入り 家元である父の仕事を近くで見ることになった勅使河原。 当時 41歳だった勅使河原が第四代家元として跡を継ぐことになったのだ。 それが真っ赤なので 本当に1,000本以上使ったと思うんですけどそれを ぶわ~って真っ赤な繭玉のような形のものをそのテレビの後ろに ぶわ~って作ってメインそれだけにしてそういう作品を作ったんですよ。

いけられたものがあ~ きれいって思うのはやっぱり 興味がある人だけですからやっぱり もうちょっと…やっぱり 伝えていかないとただ いけあがったものを見て…何かしら いろいろ考えていくっていうことをしてLIVEっていうのを始めました。 東大寺への献花式や四国こんぴら花舞台洞爺湖サミットなど 日本全国で草月流の存在をアピールしてきた。