それを玄奘の弟子の慈恩大師・基という人たちと玄奘というのは 「西遊記」で三蔵法師という名前で我々にも割合 親しみがあるお坊さんなんですけれども。 そういう人たちもみんな唯識を勉強された唯識というのは 常識… いわゆる常識を否定したところに全部 一人一人の心の中の存在にしかすぎないんですよ。 しかし 一般の人はそれを非常識だと考えますが非常識という言葉は あんまりニュアンスが よくないですからね。 だから僕は このごろ唯識は反常識であると。
唯識に限らず 仏教というのは自分とは何かという事をつまり 「私が」 「俺が」 「自分が」という事がその順序って何ですか?この「なに」から「なぜ」そして「いかに」というね思考のプロセスがあると私はずっと言い続けてきてるんですが。
その事がどういう差し障りになる…?「自」と「他」とを設定しその自と他との間にいろんな対立が起こってくるというですねその対立… 今自と他と言いましたが「他」の中には 人間だけじゃなくて自然の事もありますしねそれから まあ国々の事もありますしねいろんなものが 「他」の中に入ってこようと思いますが要は 根本的には自我執着心なんです。 That’s a pen, I think.「I think」と言わなきゃいけない。
前回 私が挑戦したのは深い呼吸をするためのレッスン呼吸を通して心と体の橋渡しをするそれは 背骨起点になるのが呼吸の吐いたり吸ったりするその一つ一つのところにまず ここから動き始める。 深い呼吸ができるようになったら体がリラックスしてなんか心が ほどけてくるようなそんな感じしましたですよね。 その呼吸が浅くなってきたと気が付けば「あ いけない いけない」と思ってしっかり深い呼吸を取り戻すようになるとまた全体に リラックスしてくるから心も ゆったりとしてくる。
次に これが大切なんですが呼吸を整えていきます。 呼吸の長さはですね自分のペースでなるべくゆっくり意識を傾けて行っていきます。 それが脳の働きなのでそれを ネガティブに捉える必要はありませんが なるべくですね今 ここに意識を こう戻す一つのやり方として数を数えるという方法があります。 そして 一番大切なのが最後に心を整えるという事です。 でも 気が散る女っていうのも自分の頭の中でつくっているだけですからそれも妄想なんですよね。
でも 呼吸だけは 自分の体の中でコントロールできるんですよね。 意識してやらないで 自然に自律的にやってるものを自分のコントロールでできるようになるという事は自律してるもの全てのものに対して意識を向ける事のできる一つの取っかかりというか大きな窓口になるんですね。 仏教の世界の事が こんなに即お坊さんでも なかなか気軽に触れる事ができないような哲学教理というようなイメージがあって。
1つは一番上の「自分」は何者かを知らないというねそれを専門的に「我癡」といいます。 今 問題としていこうとするのは第7番目にある自我執着心である末那識ね。 自分というものは こういうふうに唯識では捉えているんだただ 末那識というのはですね深いところ深層にある心の働きでしょ。 ボランティアだったら人のために行為してるんだという末那識があるという事がね推測されるわけです。
その上ですね 煩悩の種子によって束縛された深層心という阿頼耶識ね 阿頼耶識の束縛を「麁重縛」といいます。 それがまたずっと時間的な経過を経て深層心から表層心にそれが再び煩悩が生まれるわけですよ。 その煩悩が また即座にこの深い阿頼耶識に麁重縛を植えつけていくわけ。 だから相縛と麁重縛っていうのはこれは相関連してね相互因果関係でグルグルグルグル展開してるわけですよ。 ひとたび人を憎むとねそれが グルグル グルグル展開してね雪だるま式に憎い心が出始めてくるわけ。