終戦間近ドイツ シュタインへーリングに入ったアメリカ兵たちはナチス親衛隊の気配を感じ計画の拠点を発見したとは思いもしなかったのです。 アメリカ軍の計らいでシュタインへーリングの司祭に託された子どもたちはダッハウにある修道院に移り連合国救済復興機関・UNRRAによって養育されることになりました。 第二次大戦末期イングリッドは他の子どもたちと一緒にシュタインへーリングに連れて行かれました。 当時 イングリッドはまだ幼く2歳か3歳でしたがフランスから来たことは知られていました。
ラモルレイにあったレーベンスボルンにまつわる この実話はフランスの週刊誌に取り上げられクラリッサ・ヘンリーたちが描いた「純血」という本によって世間に知られることになりました。 イングリッドと洗礼親の再会はかないませんでしたがイングリッドがラモルレイという地名を覚えていたおかげで私たちもラモルレイという場所を特定できたんです。 フランスの人々が ナチスの出産施設が自国のラモルレイの森に存在していたという衝撃の事実を知ったのです。
実際 役所の記録には1944年に生まれたアーウィン・グリンスキーの名前が書かれていました。 学校でも私は エルヴェ・グリンスキーで通っていました。 ドイツ語で「アーウィン・コンスタント・ジャン・シュミット」と書かれていました。 グリンスキーじゃなくシュミット?驚いて母に尋ねると「誰にも知られちゃいけない」と言ってそれは 彼の理解を超えており真実を探るべく彼は持っていた僅かな写真を調べました。
エリザベスが生活に困窮していなかった一方で一般のフランス人は配給頼りでした。 隣に座っているのは施設を運営していたグルンヴァルト夫妻。 グルンヴァルトは親衛隊の軍曹でした。 アーウィンは全てを知り 家族の秘密が純粋な支配者民族でした。 ヒトラーはシュペーアに ベルリンを世界一 偉大な首都に作り替えるよう求めたのです。 「ゲルマニア」とはヒトラーとシュペーアが作り替えた新生ベルリンに付けようとしていた名前です。
ヨーロッパ各地に建てられたレーベンスボルンはゲルマン民族により多くの子どもたちを提供し最強の帝国を作ることを目的としていました。 第三帝国が1,000年続いたらそのうち何人が迫りくる連合国軍との間に挟まれていると分かった時もナチスはレーベンスボルンを1か所たりとも敵に渡すまいとなんとしてもドイツへ連れて行かなければならなかったんです。 一つは エリザベスが子どもと一緒にレーベンスボルンを出て子どもの父親とドイツへ行く。 2つ目は エリザベスだけが脱出し子どもはレーベンスボルンに残していく。
しかも1946年のニュルンベルク裁判ではレーベンスボルンの責任者たちは戦争責任を問われなかったのです。 彼らがレーベンスボルンの責任者として被告人席に着いたのはその2年後の1948年ニュルンベルク継続裁判においてでした。 後のニュルンベルク継続裁判では2年にわたって反対尋問が行われ結局 レーベンスボルンの責任者たちは判決で無罪になりました。 しかし クラリッサ・ヘンリーとマーク・イレルはレーベンスボルンの責任者たちを追跡取材することにしました。