家族ぐるみの農業移住者独身の農業雇用労働者技術移住者 移住花嫁。 南米各地に渡った移住者の皆さんを私たちは10年ごとに追い続けた。 ベレン出航から7日目横浜を出てから38日目いずれも6年前に移住 今は年収300万をあげる独立青年であった。 移住50年目に 柴田さんを訪ねてみると周りには 別荘地が開けていた。 あの~ ところで今一番気がかりなことは?投資信託に回した。 投資信託に回したからあなたのお金は3年返ってきませんよ4年返ってきませんよとこういうわけでしょう。
私たちが訪ねた時 ちょうどニンニクの植え付けが始まっていた。 だからニンニクっていうのはすごく微妙なもんなんですね。 1回に莫大な資金を投入するニンニク栽培は危険いっぱいの投機農業である。 膨大な輸入ニンニクに取って代わったのである。 11年前に 鈴木さんのニンニク植え付けを撮影したのはそんな絶頂の時代であった。 インフレ退治を標ぼうして登場したカルドーゾ大統領は金融引き締めと共に農産物の完全自由化を断行。 値段3分の1の中国産ニンニクが市場を席けんしニンニク農家の息の根が止まった。
日本人が開発したんですよあそこでニンニク栽培をね。 で 膨大な ほら 肉を食べる人たちニンニク使うでしょ。 ところが一転さ 貿易の自由化をそろそろしろなんてさ 言った途端にそれは じゃあ貿易の自由化だってこれもこれも自由化するとニンニクがドーッと入ってきちゃってもう食っていけなくなるとかね。 この事件の9年後の平成20年「月に100人以上の患者を扱いサッカー王国のブラジルでヒザを治すことができれば神とあがめられる」。 このファックスの6年後鈴木さんは病死した。
壁には 息子夫婦と一緒に写った家族写真。 あのね 移住先にはね 南米には日本人の女性と結婚したい男性がたくさん独身男性がたくさんいるからその人たちを送ってほしいというんで親戚一同が駆けずり回ったりそれから花嫁学校があってそっから そこに勉強しにきた女性を男性に紹介したりっていうんで 行く。 高度成長経済が もう軌道に乗ってどんどん どんどん団地は建つわね経済力は強くなってくるわ。 2人のみなしごを育てる香川夫妻は敬虔なクリスチャンである。
仕事中の交通事故。 小さい時にパイロットになりたいって言ってたのは誰だ?私です。 ああ あなた?パイロット。 パイロット。 交通事故で。 確かご主人も交通事故じゃなかった?そうです。 日本に帰ったら勉強も全然違うしまだ 弟と妹も 日本語も上手じゃないし私も上手じゃないから。 土地と家と トラトールも2台あったしいろいろな機械もあったのでそれを少しずつ売って で倹約してなんとか食べて学校に行かせて3人の娘は大学を終えることができました。
老いた父は息子に洗濯の技術をたたき込みアルゼンチンで生きていく知恵を必死で授けた。 沖縄県糸満市喜屋武は間断なく飛来する戦闘機を別にすれば自然に恵まれた土地柄である。 沖縄連れてって 沖縄連れてってって。 父母の納骨を済ましたあとはアルゼンチンに戻る予定だったが夫婦は一転して 沖縄帰国を決意した。 今でも覚えてる? アルゼンチンの言葉。 ブエナスタルデス。 仲間さんがここに移住した昭和43年当時アルゼンチンの経済はまだしも安定していた。 「今 人生で一番沖縄を楽しんでいる」とカツさんは言う。
君が三四郎君?そう。 これは この度 日本で会った三四郎さん。 バイク事故で骨折し松葉づえをついて病院から現れた。 ああ 三四郎君。 今どんな仕事してるんだっけ?今はね 建築関係の仕事です。 移住50年目 大森夫妻が住んでいた家を訪ねてみると。 それで 大森さんはもうここには住んでない?オオモリサン…。 採石場で息子さんが働いてるそうです。 息子の大森三四郎さんは 日本から戻ってきて 採石場で働いているという。 50年ね 三四郎3歳。 自動車学校通って。