テレビのインタビューだからあるいは お仕事を踏まえてあっ じゃあ別に テレビに限らず別に どうしても みんなが結構 やっぱり そうやってその場に こう 収まるようにやっぱり 言葉とか紡いじゃうってことなんですかね。 そういう言葉で しゃべってるのかっていうのは結構 インタビューとかあとは 病院に来られる方ですかね聞いても思います。
今どきは やっぱり認知行動療法をやるだとか治療成績が エビデンスとしてはっきりしている薬物療法をやるだとかそういったことをきちんと踏まえてないと精神科医として ちゃんとしてないって言われないか心配になっちゃいますよね。 国際的な診断基準っていうのがまあ いわゆる「DSM」ってアメリカの精神医学会が出している診断基準であってそれに基づいて 診断してまあ あんまり こう内面深掘りとかはしない。
精神医学の言葉っていうのはきちんと定義されているものを使っていくんですけれどまあ でも言葉っていうのは多分 本質的にはアナログなものでだから おっしゃるように人によって こう 言うことも違う精神科医が みんな言葉に鋭いわけでもないしでも 厳密性高めた議論は果たしてオーディエンス どう見るかっていうと別に オーディエンスでも考え方が 多分 違うし届くかっていうと届かないことも多いかもしれない。
経営者目線と 消費者目線ってまあ 半分同じようなもんだと私なんかは思うんですよね。 結局 それって経営者か消費者かは おいといて資本主義のロジックに のっとってるっていう点では まあ同じですよね。 そこでは 本当にいい「いいね」っていう投票と資本主義のロジックが結び付き始めててインターネットの世界 昔はもっと 「いいね」だけで回ってたところがあったけれどももう だいぶ 資本主義化したインターネットみたいにウォッチしないわけには いかないみたいな。
SNSの共感さえもお金のように カウントされる時そこに ジレンマは?いつの間にか大事な心を置いてけぼりに生まれてきたんだから 別にね価値があるとか ないとか言われる筋合いはないんじゃないのっていうこと。
機械のメンテナンスのように治す前にそもそも 人間の遊びの部分はどこから来たの?今の社会で 遊びを生かす方法は?合理性って 目的があって初めて何か 最短ルートを多分選ぶ発想法だと思うんですけどその目的ってやっぱり 見つけるのってすごい難しいじゃないですか。
資本主義に生きていたっていうのがすごい 自分の中ではっきり 何か 理解できてだからこそ 何か 例えば今就活とか あるんですけどそれが失敗したとしても 別に まだそんな 自分なりの言葉だったりいつも 周りに流されてるだけだから議論してって言っても意見が出ないんじゃないかみたいにまあ…。 私も教壇にいた頃はそういうふうに思ってたんだけどどうも そうじゃなくて変な形で 欧米人以上に我々は 強い個人主義を持ってるかもしれないですね。 これも私のプライバシーだからっていうちょっと変わった個人主義に 今なってる。
ただ まあ今日 ここまでの話で精神病理学とか そういうのが全然 今 顧みられてなくってその コスパ診療みたいな話もあったかと思うんですけれどただ思い返すと その精神病理学のまあ 最初の方の目の前の患者さんを こうそのまま見る ありのままに見る。 今 診療の実情として診断基準を使わなきゃいけない薬も エビデンスにのっとって出さなきゃいけないそれは もちろん そうなんだけれどその患者さん個人をどうやったら診れるか。 やっぱり 診断基準と診断とお薬だけ書いてあるカルテは 無味乾燥でつきあいが 全然深まらない。
だからネットの力は 結構 つながりには大きく影響してるんですか?アカウントを切り替えてつながりたい人と つながりたい所でだけつながれるっていうのは今のコミュニケーションの面白いところで。 みんな 心を開きたいっていう思いは90年代に すごく心理学ブームとかメンタルクリニックブームで はやって「新世紀エヴァンゲリオン」みたいなものもヒットしてっていう時代ありましたけど結局あのころ じゃあ心っていうのはどうなってたかっていうと心を開いてもコントロールできないみたいな状態だったと思うんですよ。
昔は エディプス・コンプレックスが父系的な社会の中でっていうのだったかもしれないけど今 内面化されてることっていうのはコスパ良く うまくやってかなきゃいけないみたいな そういう状況の中で内面化されてるものを頭で考えてるのとでも 体はそれに ついていけないっていう時になかなか ねじれが生じて苦しいと。
まあ あの〜 今の精神医学でもフロイトの エディプス・コンプレックスみたいな議論じゃなくってもっと 進化心理学で解釈し直そうっていう話が出てて多分 その辺が つながってくる話かなと思うんですね。 だから それは別に野蛮なものとかではないし だから合理的に生きるっていうこと自体が時代が病んでるとかって結構 表現あると思うんですけれども精神科医の先生方から見てですね今の時代は病んでるのか どうなのかっていうのと…まあ 時代が病んでるってことは人間が病んでるってことだと思うんですけども。
今 社会が 個人に適応してくればいいんじゃないかみたいな言葉も泉谷先生が あったと思うんですけどその社会が 個人の集合だとすると社会を個人に寄せるっていうのはかなり厳しいんじゃないかなと思いつつでも コミュニケーションの総体で社会が こっちに寄ってくるんだったらそれは ありえるのかなあ とか思いながら社会って 改めて何なんだろうなと聞かせて頂いた議論だったなと思います。