それでは えっと… 馬場先生。 馬場先生の 今お一人で暮らしてらっしゃる「ひとり残りし家」というところが出てくると思うんですがちょっと最後の「しぐれする」がちょっと意味が読み取れなくてちょっと そこだけ困ってしまったんですけれども。 中国とアメリカの大きな力っていうものがやっぱりそういう「無力の夕餉」そこに批判はできる 批評もできる怒ることもできる 悲しむこともできる。 ほとんど自覚してから70年ぐらいの歴史っていうものを自分が一緒に歩いてきた。
昭和12年7月 北京郊外で日本軍と中国軍が武力衝突。 女学校の2年生までは なんとか…の秋まではね昭和16年12月太平洋戦争が始まります。 馬場さんが 高等女学校2年の時でした。 真珠湾から半年の後にはガダルカナルまで戦線を広げたのが撤退することになった。 数学だか 理科だかの先生だったんですけどももう55~56のね 頭の毛も半分白い先生が授業に入ってきて 授業やる前にね僕の息子 大事な一人息子がねどっかの海に自爆して死んだんだっていうことを おっしゃったの。
昭和20年春 高等女学校を卒業し家族で逃げだし 命拾いします。 死っていうものに対して無感動だってさっき言いましたけれども死者そのものに対して無感動だし自分が死ぬことについても 怖くない。 それのノートにね何を…学校の講義のノートとしてそれを取っておかないで自分で 自分がそれまで作った歌を全部そらで言えるんですよ。 ですからね 誰に聞いても同じこと言うと思いますが自分の作った歌を一首読むとそれを作った時の情景がパーッとカメラよりも 何倍の鮮やかさで浮かび上がってくるんです。
馬場さんが初めて能を見たのは 昭和21年学んでいた国文科の教授の勧めでした。 なんか つまり我々がむしろね 未知の芸能の世界です。 翌年 19歳で 喜多流宗家の門をたたき本格的に能を学び始めます。 感情の表現っていうのはごく少数にしか表さない日本人の一人だったわけですよ 我々も戦後直後までは。 短歌や能も続けながら中学の教師として子どもたちと向き合う多忙な日々が始まりました。 元気でしたね 戦後の子どもは本当に元気で はつらつとしていて。 生徒と本当の一体感。
高校の教師になるための採用試験を受けますが試験通ってもね採用してもらえないんですよ。 例えば 学校による差別 あるいは年齢による差別 男女による差別多分 東京都立の中で最高にみすぼらしい夜間の高等学校に採用してもらったわけです。 そういうプロセスの中でねだんだん だんだん短歌の改革運動っていうのがね弾圧じゃないんですけれどもねジャーナリズムがそこに携わった人たちの歌を「芝居を書かないか」って言われた時「何か面白い芝居じゃなきゃ駄目だ。
世阿弥 世阿弥 能と文学 花伝。 やっぱり 女性の主宰者っていうのが結社の中でそういう結社がなかったので。 馬場先生の 書ける 読める両方というのはしかも 女性であるっていう。 老若男女を問わず本気度がすごいんですよね。 「ベルリンの壁は平成の始まり」今度「トランプの壁」が…。