こころの時代~宗教・人生〜 追悼・堀文子さん アンコール「今、あの日々を思う」

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この番組のまとめ

「一所不住・旅」と題された展覧会には5万人を超える人々が訪れました。 日中戦争が始まり 国家総動員法が制定された時代の作品です。 「時流をよそに脱俗を夢見て私は一所不住の旅を続けてきた」。 でもね やっぱり庭の自然はね自力で生きておりますからね今日はねもう ドクダミが終わりましてねそれで カンゾウが昨日 咲きましたけどもう つぼみでございますから。 第1次世界大戦が終結した年でした。 生家は 皇居や政治の中心にほど近い東京・麹町 平河町。 父は 中央大学で西洋史を教える歴史学者。

父親がね庭風に庭を造るのが嫌いでねタイサンボクの木が1本だけございましたね。 タイサンボクの木にね大きな太い幹の枝の所をね何ていうんですか カマキリのねメスのカマキリのおなかの大きいカマキリがねこういうふうにしながらねジーッと こっちを三角の顔で見ながらねゆっくりと上がっていくの。 それで それまではね麹町の平河町ですから東宮御所から宮城へお通いになる時永田町小学校の前をお通りになるんです。 そのころ世界を牛耳ってたのが英国でしたから英国大使館に勤めてる人の息子なんてね学校中が英雄のように騒いで。

関東軍は 自ら起こした鉄道の爆破事件を口実に堀さん17歳の時二・二六事件が起こります。 同じ年 ドイツで開催されたベルリンオリンピックに日本は それまでで最多の選手団を送り込みます。 私が 朝ね 平河町のうちからね私の学校が新宿にございましてね三宅坂から電車に乗って新宿へ行くんですけどね三宅坂へ行こうと思ってもね町がバリケードでね軍がね 兵隊が全部 門口に立ってましてねバリケードでね 道が歩けないんです。 ですから 命を懸けてねやっぱり自分をね2か月後 堀さんは女子美術専門学校日本画部に入学します。

「年若い人たちに指図をする仕事は自分を堕落させる」と考えた堀さんは東京帝国大学農学部で作物の記録係の職を見つけました。 絵の素材や構図も伝統的な日本画にとらわれない実験的で斬新な表現を模索。 作品を発表する展覧会や画材の流通は統制され時局にかなう題材が求められるようになっていきました。 画家でないとね軍のさ いろんな機具をつくる女工さんにさせられるのでやっぱり少しはね協力したようにしなきゃなんないので私ね 落下傘はね 女の人で絵になるなと思ったからだって 題材がね戦場じゃないんですから。

あの 堀さんは子供向けの絵本だといっても…。 ランドセルさげてね4月の入学のあれなんてああいうね子供を堕落させるような事に加担しませんでした。 子供は最高のものを見せなきゃいけないと思ってるから一心不乱に描きましたね。 朝鮮の人と大変親友になってねそこの教科書を描きました。 それで 私の絵を教科書に使うとかっていうお話があったのを覚えてますけど何を描いたか覚えてないです。