ということでね今日は女性法律家の先駆者三淵嘉子にスポットを当てていこうと思うんですけれども。 後ほど 詳しい話を伺っていこうと思うんですけれどもまずはですね 三淵嘉子が どのような歩みを経て弁護士になったのか。 これは 明治26年に発布された弁護士法。 弁護士の資格を記した第2条にこんな記載があります。 女性が弁護士になれなかった戦前の日本。 三淵嘉子は中田正子 久米 愛と共に初めての女性弁護士となりました。 嘉子は なぜ弁護士を志しどうやって夢を実現していったのでしょうか?シンガポールは漢字で書くと…。
大学の理事会や文部省に働きかけ昭和4年 明治大学に女子部を設立したのです。 女子部の出身者が弁護士資格を得るための司法科試験を受験していますがいずれも不合格でした。 なのに それプラス まだ弁護士法が改正されてない時から始めて女子部全体のことを考えて1人でも まずは行かなきゃと思って女性は あるところまでしか進学できないっていう状態になっていましたから。 明治大学の女子部っていうのは非常に先見の明があったと思います。
戦後の 人生の新たなスタートを切るにあたって嘉子は 自分を裁判官に採用するよう司法省に じか談判します。 キャリアを積んでるからこそ発信できる言葉とか伝え方があるはずだと思った時にじゃあ ただただ「30過ぎても出たい出たい」って言っててもしょうがないから30過ぎた時に若い新人のアナウンサーとは違う要素を自分につければアナウンサーとしての寿命が延びてそれによって 女性アナウンサーの新しい道がひらけるんじゃないかってことを思ってたんですよ。
さあ 三淵嘉子裁判官になったわけなんですけれどもそのあとの知恵を今度は見ていこうと思います。 あとに続く女性裁判官も毎年 誕生していきます。 女性裁判官は そこに配属されるべきとの見解を 田中長官は示したのです。 嘉子の発言の背景には女性裁判官の進路が限定されてしまうことへの誤った認識は改めさせなければいけない。 その後 女性裁判官の配置に偏りは起こりませんでした。 男性と同じように名古屋地裁への転勤を経たあと東京家庭裁判所に異動しています。 昭和47年 嘉子は 女性として初めて裁判所の所長を任されます。