こころの時代~宗教・人生〜 アンコール「“豊かな終わり”を見つめて」

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この番組のまとめ

外来患者の診察だけでなくホスピスを備えているのが特徴です。 ご本人たちは 大変な深刻な時間を迎えておられるのでにもかかわらず笑うといってもですね非常に謙虚でないといけないという事は分かりつつそうしたらですね嘔吐をされるんですけど終わったあとに 最後にですね間違ってウォシュレットのボタンを押してしまったというんですよ。 そこまで 心も体も ある意味じゃ追い込まれてるにもかかわらずウォシュレットで笑ったらですね思ったんですけどその時に あぁ そうか 笑いってこんなもんなんだなってね思った事があって。

53歳を迎えた時 徳永さんは患者一人一人と その家族にじっくり向き合う治療を行いたいと診療所を開いたのです。 近代国家っていうか 近代技術を獲得した この国ではですね病気の場合だと みんながベルトコンベアーに乗せられるっていう感じがするんですね。 なんか みんなが ただベルトコンベアーに乗っとればなんか社会が それなりにポンポン ポンポン はじいてくれて…。

なので 2の言葉探しが要るなと思いながら忙しくなるとね1で終わっていくんですよね。 人には言いたくないものみたいなネガティブな言葉にどうしても置きがちなんですね。

他の事々は 締め切りが来てもちょっと事情があってだとかまあ なんか延ばしたりまともに受けない事があったりとりあえずの事で そこを対応するみたいな事がありますけども死の時だけは 結構みんな真剣なんですよね。 その時の表情とか言葉とか心の動きがですねやっぱり大変ではあるんですけれども真実感があってですね それは見事だなというのがありますね。 その人の人生背負って出てきた言葉ですね それはね。 真反対こそ 臨床にはちゃんと真実味があってですねいろんな真反対が こういろんな形である。

お湯 お風呂からくんで持ってくるとペットボトルみたいなのがあってですね「先生 これにお湯を入れてきて」って看護婦さんが言うんですよ。 で 持って行ったらペットボトルの方ですけど「穴が開いてない」って看護婦さん 言うんですよ。 そういうのが終わると「あと 看護婦さん」と言ってそこからは careっていう言い方をするんですけれどもよう考えてみますと事の始まりからcareもcureも入り混じってるっていうのが私の感じだったんですよね。

病院なんか行くと やっぱり司令部がしっかりしてますからそこに従順に従うみたいな主従関係はどうしてもできちゃう。 その人たちを私たちが「いかがですか?」と言って逆に言うと家来になって主従関係の逆転みたいなもの。 痛みについても病院では これぐらいの痛み止めが必要だったのになんかちょっと少なくなってるっていうの多くの在宅をやってる医療者たちが口をそろえる事で「何で?」っていうふうに言いますね。

これは ある患者さんですけどお父さんは 90歳のがんの人で転移して 肺炎も誤嚥性肺炎が起こってでも お母さんの病院での死がかわいそうだったので家でみたいと言われて家でみておられたんです。 でも 大事なのは おしっこびっしゃんこ お父さんも私もあそこなんですけど その事は委託してたら 経験しない事。

病院であれ ホスピス緩和ケア病棟であれ在宅であれ 診療所であれその死についてですねランクを付けるまあ 誰も付けてない私だけ 付けてるんだと思うけどもそれは等価 等しい価値というものではないか。 がん以外に非がんあるいは がんを抱えても突然な心筋梗塞だとか脳卒中思いがけない死が入ってきますがそういう時にあ~ ××だったらよかったのにみたいなふうに言う事はなくてまあ やむをえず起こったそういう出来事ですね。

一つの宇宙だから自分たちの意思でここで熱出せとか下げとか白血球ここで頑張れとか指示できないんですね。 それから もう一つ予想外はやっぱり家族っていう人たちの気持ちみたいなものもあってですねなんか認知症というような事が起こったりとかあるいは そうでなくてせん妄っていうものをみんな起こしやすいんですね。