頼~みま〜しょう!ど~れ〜!殿司寮という役割の雲水に名前を名乗り道場のとりまとめ役知客寮への取り次ぎを頼みます。 知客さんは それを見てざっと目を通して当道場 ただいま満衆につき庫下回りかねており掛塔の儀固くお断りいたします。
修行僧たちは この禅堂で寝起きをし 坐禅修行をします。 単の後方にある小さな物入れ「単箱」に入れた僅かな持ち物だけでの修行生活が始まります。 一応 開枕諷経が済んだあと布団の中に 柏布団の中に入って寝るという格好になるんですがここからがまた面白いというか変わってるのが布団の中に入るんですが また そこからごそごそと起きてくると。 修行僧は 行く雲 流れる水のように教えを求めて行脚することから基本的には 堂内員と常住員というふうな形で分かれてますね。 堂内員は半年たつと常住員に大体いきます。
両方ができて 初めて本来の出家者宗教者ってことになりますね。 今は時計がありますからね時計で判断できるんですけど昔は 時計がないから結局 こういう音がないと中断してこっちに みんな来いとかですね。 それに自然に反応していくとつまり これはもう 体が そのように順応していくっていうよりもそのことを体が覚えて素直に行うようになる。 体得底を たくさん身につけることが修行の原点なんですよ。 威儀即仏法というのは曹洞禅の方でもありますが食器の持ち方とかやっぱり誰でもありますよね。
それを難しい言葉で言えば 己事究明で本当の己事 自分自身を究明していくこと。 生き方と そういう体験っていうものがありましょうがその… それによって確立された自分だという意識がそのために修行に皆さん 来てもらうわけです。 「本来面目」というような言葉がありますが 自己本来ですね公案が一人一人の雲水に与えられるわけですよ。 その公案に参究をすることで毎日毎日 その公案の真意をですね手に入れんがために師家との間で行う問答のことを参禅というんです。
一生懸命 考えてですよ。 死んではいけませんけど死ぬ直前ぐらいの倒れ方をしてみんなに運んでもらって 救急病院でそういう診断書を書いてもらうという結論が出たところで今度は その方向に向かって一生懸命 頑張ることにしたんですよ。 托鉢に出た時にはこの区域 決まってるんですけどねこの区域が 一生懸命走り回ってやれば 済んでしまったら隣の区域も出てやるとぐらいの気になりまして。 で じゃ もう少し頑張ろうと熱を込めてやってみても1週間半たっても倒れない。
それを 隠侍という立場は そういう時に運転手として現場に行ったり隅の方で講演を聞かせてもらってもう終わりそうだなってなったらサッと あらかじめ外へ出て出てこられるの待って車に乗っていただいて帰ってくるわけですよ。 でも これはちょっと今だから言えるんですが逸外老師の講演は 演題は全部違いますよ。 逸外老師も亡くなられて 遷化されてこちらの道場に戻って私は評席という役員になって何年かやってる時の話です。