こころの時代~宗教・人生〜「テレジンの絵は語り続ける」

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この番組のまとめ

これは 第二次世界大戦中ナチス・ドイツがつくった強制収容所でユダヤ人の子どもたちが描いた絵です。 子どもたちの多くはこうした絵を残して絶滅収容所アウシュヴィッツへ送られました。 ポーランド チェコスロバキアハンガリーとあの辺の国を回って歩こうかっていうのが旅の目的だったんで列車で行く時に列車のコンパートメントが…私たち ちゃんと予約して取ってたのになんか若いポーランド人がいて私たちの席がなくてね。

続いて向かったのは当時は社会主義国だったチェコスロバキアの首都 プラハ。 で チェコの国旗もあるんですけどそれよりもはるかに赤旗が多くてすごい共産主義! とかっていうふうな冗談言いながらだったけど。 で もう 私たち 全く読めないそのヘブライ語の文字があったりでなんか入れるみたいだけどのぞいてみようかって言ってちょっと ほんとにもう時間つぶしというか 興味半分でその建物の中に入ったんです。

「ホロコーストナチス・ドイツのユダヤ人絶滅作戦で600万人以上のユダヤ人が殺されたという。 18歳まで笑顔がなくてね骨 描いてる子より笑顔が戻って来た 娘の頬に…小さな公園の曲り角で『バイバイ また明日ね』と小さな手を振っている野村さんは展覧会の開催に向けて 走りだします。 当時の在日チェコスロバキア大使館にいきなり1人で訪ねていきました。 野村さんは チェコ大使館を通じて絵を持っているユダヤ博物館と交渉を始めます。 当時のことですから大使館を通して テレックスでのやり取りしかできなかった。

ここに 野村さんが展覧会で使っている展示用のパネルが保管されています。 たかが子どもの絵のしかも レプリカ展示して誰が見に来るんだって言われた時はやっぱりそうかな… っていうちょっとがっかりする気持ちもやっぱり捨てられなかったですね。 「『テレジンの小さな画家たち』 安徳 佑。 これがアウシュヴィッツでね。 割と 何回か皆さんお連れしたりするの やってたんだけどあの時 初めて若者が参加したというのが翔平君。 ああ写真 フェイスブックで見ましたよ。

大人の人は 特にこれからもっと 収容所を広げていかないといけないんでその元街だった所の残ってる広場とかに建物を建てたりとかそういうお仕事してるわけですね。 その時に 大人の人たちが集まって今 あの子たちの命を救うことはできないけどせめてね 生きてる間 子どもたちが収容所の中でお教室を開かせて下さいと言ってもちろん最初は駄目だって言われたそうです。 テレジンの子どものことについて知りたいと言ってる日本人は建国間もないイスラエルへ移り住みました。

でも その人が一生懸命 なんかね優しく話しかけてくるんでだんだん少しずつベッドからおりてコンクリートの床に座ったりして少しずつ こう そばに寄ってったらね「私は フリードル・ディッカーよ」って。 美術教育についても学んでいたフリードルはアウシュヴィッツへ送られるまでの間絵の教室で先生を務めました。 「さあ 目をつぶって」ってみんなに目をつぶらせてもういっぺん楽しそうにハミングをして「さあ 遊園地のこと思い出したらそれを絵に描きましょう」とおっしゃったんですって。

私は 13年前の中学生時にフリードル先生の存在を知りマイドリームの絵を描いてもらおうと考えました。 多分 無意識のうちにでしょうけど豚やハリネズミや小鳥にまでフォークを刺しちゃった。 あ この展覧会は大丈夫きっと たくさんの人が見てきっと たくさんの人が私が言いたかった というか私も あの絵を見て心に受けた子どもたちのメッセージはたくさんの日本人に伝わるだろうなってあの瞬間に自信持ちましたね。