今宵は 日本女性初のオリンピックメダリストに迫ります。 いよいよ来年に迫った…91年前のアムステルダムオリンピックの日本女子代表…女子スポーツへの偏見が根強かった時代。 そして 僅か24歳で この世を去った天才アスリート 人見絹枝。 女性が壁を突破する知恵とは何なのでしょうか?日本女子陸上界にもたらしたマラソンランナーです。 いや~ でも 有森さんはね人見絹枝と同じ岡山出身と。 その冠のネーミングが人見絹枝杯だったんですよ。 取ったその日が人見絹枝さんの命日でもありメダルを取った日でもあるっていう。
クーベルタンの提唱により始まった近代オリンピック。 一体 なぜ?女性の参加をIOCに却下されたミリアはオリンピックの向こうを張って女子オリンピックを開催し女性アスリートの力をアピールしようとしたのです。 さまざまな外国人選手と競い自分の世界を広げることができたのはミリア夫人が女子オリンピックを開催してくれたからでした。 ミリア夫人の粘り強い交渉によりついにIOCがそこで人見は 種目を100メートル1本に絞ることに決めました。 3人は共にオリンピックに出ることを誓い合っていました。
日本女性初となるメダルをひっ提げてアムステルダムから戻った人見は国民から大喝采で迎えられます。 オリンピックが始まって女子も そこに参加をって思ったところ女子に激しい競技は向かないっていうことからそしたら IOCから 「オリンピックっていうのを使うな」って言われて。 で ちょっと別の名前にしたけどまあ いわゆる女子オリンピックとして語り継がれてますね。 それはもう オリンピックで ああいう成績取ったからって 勝手に決められて。
結局 彼女は目指せなくて断念して私が まあ 引っ掛かって出れるようになった時にオリンピックを迎える年のお正月に送ってきた手紙に…すばらしい手紙ですね。 人見は 入賞が有力視されていた個人200メートルを棄権し結果 4位入賞を勝ち取ったのです。
「法の下の平等」なんて言いますが今宵は 男女不平等の時代に女性の道をひらいた法律家に迫ります。 私も 初めて聞いた時驚きましたけれどもそもそも アナウンサーから弁護士に転身しようと思われたきっかけはでも 伝えるって伝えただけで終わっちゃって具体的に何か世の中を変えていくことってなかなか難しいなって思って。 さあ ということでですね今日は 裁判にも関わる法律家として女性への偏見と闘った人の知恵をですね味わっていこうと思います。 昭和60年の男女雇用機会均等法の成立から30年余り。
嘉子は さまざまな困難や偏見にぶつかりながらも奮闘を重ね女性法律家の先駆者三淵嘉子の知恵を菊間さんは どう読み解くのでしょうか?女性で初めてっていうことでお名前だけ存じ上げてたんですが官僚にもなれない司法にも入れないっていうことで国の大本を作ってる領域には女性は入れなかったんですね。 ここで教鞭をとっていた民法学者の穂積重遠はやがて来る弁護士法の改正を見越して女性法律家の育成が急務であると考えました。
なのに それプラス まだ弁護士法が改正されてない時から始めて女子部全体のことを考えて1人でも まずは行かなきゃと思ってすごい気力とエネルギーと。 でもね やっぱり それほどの勉強をしてまでも弁護士になるっていうのは当時の嘉子にとってはその弁護士っていうのはどう魅力的だったっていうふうに…。 弁護士になった嘉子なんですけれどもこれで終わりではありません。 弁護士として開店休業の状況が続いたこともあり嘉子は 和田芳夫と結婚します。
昭和22年 新憲法の下で最高裁判所が発足し現在につながる新しい裁判制度が整えられます。 明治大学女子部の後輩で戦後に司法修習を受けた石渡満子が判事補に任官。 裁判官となった嘉子の初任地は…小さな体で肩を貸して駅まで送り届けたこともあります。 「女性も男性と同じように地方の裁判所に転勤させる」という嘉子は そんな論調に内心 大きな反発を覚えていました。 NHKのラジオ番組の収録で戦後新しく出来た 家庭や少年に関する事件を扱う家庭裁判所。 女性裁判官は そこに配属されるべきとの見解を 田中長官は示したのです。
家庭裁判所が適任かどうかはそれぞれの裁判官によります。 もちろん 嘉子は 家庭裁判所の仕事を軽んじていたわけではありません。 確かに 理不尽な怒り方されたり男だから ガンガン ガンガン怒っていいっていうのも問題だと思うんですけれどもそれで怒られないから女子が得してるのかっていうと怒られるべき時に 怒ってもらえる機会を逸してるというふうにも実際問題ね 今 管理職の皆さんどこまでが教育的指導というかね叱るっていうことでどこからがパワハラかこれ悩むと思うんですけど…。