やりました 銅メダル!パラリンピックで選手を支える…「伴走者」とは視覚障害のあるランナーと共に走り選手の目の代わりを務める存在。 中田は これまでアテネパラリンピックで金メダルロンドンパラリンピックでは銅メダルに選手を導いた。 ♪~一緒に走る…アテネパラリンピックで中田が伴走したマラソンの金メダリスト。
伴走者として 一番大切な…ああ なるほど…!ただ それを一度やってしまうと選手は 私の言葉を信じることができなくなってしまうんですね。 中田さんが伴走者として独自にやられてる工夫してることとかトライしてることって あったりします?同じコースを。 前回の北海道マラソンありました。 そうすると 視覚障害の選手がどういった感じでこの段差を感じるのかって自分で 足で感じに行ったんですね。 マラソンで なかなか前の選手との差が詰まらないときにわざとですね 大きい声で距離を読むんです。
はあ…!そうなったときには「和田さん リラックスしましょう」とか「高橋さん リラックスしましょう」とすごい あのロープは…何だ 赤い糸じゃないけどそういったことを考えながら一緒に走ってます。 「パラリンピックを目指しているんです」という記事があったんですね。 で 高橋選手に連絡を取ってぜひ一緒にというふうにメールをもらって…。 高橋選手のほうからも頂いた?そうですね。 高橋勇市選手は当時パラ陸上界のトップクラスの選手だった。 そして 2004年 高橋選手とアテネパラリンピック マラソンに出場。
そこの…特にロンドンのパラリンピックの前は特に 和田選手とすごく目標についてなかなか すり合わなかったんです。 和田選手はロンドンのパラリンピックの前フルマラソンをやってる方が多かったんですね。 その方々に… パラリンピックの場でマラソンを走ってそして この感謝の気持ちを伝えたいというふうに言っていたんですね。 和田選手に 5000mやってもらいたかったというのは高橋選手の姿を見ていたからなんです。 高橋選手が金メダルをとって日本に帰ってきたときものすごく大歓迎でした。
中田が訪れたのは東京 日比谷公園にある大音楽堂。 こちら 日比谷公園の中にある…いろんな人が楽しめるっていう音楽祭をここで開催する予定だったんですけど日比谷音楽祭は 日比谷公園とその周辺を使った音楽イベント。 この日比谷音楽祭ですけれども開催するきっかけは何があったんでしょうか?ここ10年ぐらいですかね。 ねっ?そういう音楽が聴けるリアルな場所っていうものを実現したいと思ってこの日比谷公園を選んだんです。
ああ~ 面白い…!何か すごい相手との このコミュニケーションで本当に その人に 一番ぴったりのやり方を考えていかないと本当に いい音楽 作れないです。 この4位の自分の好きな曲を1位にするために僕のオリジナルチャートを作るんです。 そこで FM亀田を開局してオリジナルチャートをやってDJも僕がやって彼女が出来て ちょっとふわっとしちゃったんですけどそれを高校2年生まで休まず毎週末やってました。
でも 僕の中にはやっぱり自分のDNAが…本当に そのヒット曲から…自分の血液にヒット曲の中に流れているってことが分かるので自分が本気で取り組んでいいと思ったものに対してヒットしない… 要するに何だろう…ヒットしないというか多くの人を排除していってしまう方向にいくってことは絶対にないっていう確信があります。