先人たちの底力 知恵泉 選「生きるにはコメを数えろ!」

戻る
【スポンサーリンク】
22:26:27▶

この番組のまとめ

日本史上初のクーデター「乙巳の変」です。 実は この事件 日本の税制度を大きく変えるものでした。 討たれた蘇我入鹿は当時 土地を管理していた豪族のトップ。 天皇が直接 土地と人を支配する…討ち果たすことで 乙巳の変の翌年「班田収授之法」を定め全ての土地は国のもの。 更に 701年 大宝律令でコメの収穫高の3%を税として納める「租」が義務化。 全国一律の税制度が日本で初めてスタートします。

「刈田」「刈田」とありますが「刈田」って一体 何?食糧でありお金でもあるコメを奪うことで「小牧・長久手の戦い」でも秀吉の本陣楽田で刈田。 さまざまなルートを持ち相場の見極めもできる「商人」を使うことで 利家は有効な資産運用をしていたというのです。 実は この時 豊臣秀吉の朝鮮への出兵に伴い利家は 九州に向かっていました。 こちらの書状では 利家がいほり村の高橋という農民に15俵の扶持米を与え惣地下 つまり村をまとめるように命じています。

農民が 何か 農閑期になったら兵隊さんをやってるみたいなそんな時代じゃないですか。 そういう意味での品種改良が起こったんじゃないかなと思いますね。 で 今 品種改良で本当においしいですね お米が佐賀も出来てるんですけど。 そして あの ここの知恵がですね…お米をうまく使っていた加賀百万石の祖 前田利家もね出てきましたけれども。

舟倉用水のスタート地点ということなります。 篤好は15歳で 算術の師匠で同じ農民出身の和算家これにより 正確な方位と角度が測れます。 測量で重要なのは 方位と角度トータル20年かけて舟倉用水は完成しました。 私のうちは岡崎というんですがやはり 新たに舟倉用水が出来た時によそから入植しましてですねで ここでですね 田んぼを作ったというふうにいわれてます。 この地でコメを作る人々を幸せにした舟倉用水。 舟倉用水の完成から3年後。

「舟倉用水」の話が出てきましたけれどもはなわさんは いかがですか?佐賀市はですね 本当にですね町じゅうが 縦横無尽に用水路 クリークですね。 僕の住んでる家の横にももちろん用水路ありますしもう 町じゅうですね 佐賀市は。 で それ 先人たちが多分 その用水路を作ってまあ 散居 散居集落というものが日本の農村の在り方の一つ。