おおたわさんは 女性医師のパイオニア荻野吟子の知恵をいや その1900年代初めに女性が それこそ参政権もなくってお医者さんとしての試験を受ける場もなかったっていうのがよく そこで医師になったなっていうのが本当に最初から驚きなんですけど。 海外のドラマなんかにはあるんですけれども刑務所とか少年院とかの収容者たちの診察を担当する医師のことをそうですね もともとプリズンドクター矯正医官っていうんですが矯正医官そのものが人数がすごく足りなくて少ないのでその中でも女性はやっぱり まだまだ少ないですね。
埼玉県の熊谷市今の埼玉県の熊谷市が吟子が生まれた場所ということで1851年。 荻野吟子は 武蔵国 俵瀬の名主荻野綾三郎の五女として生まれました。 木戸孝允や山内容堂といった名士と交流を持つ奥原は吟子の熱意に共感し東京で名の知れた国学者井上頼圀を紹介。 その後 お茶の水女子大学の前身東京女子師範学校が設立されるとその第1期生として吟子は入学します。 石黒は 吟子のためいくつもの医学校と交渉。 吟子は 内務省に1回東京府に2回 埼玉県に1回困った時は 人を頼る。
今 女性が医師になるっていうのはどういう状況なんですかね?私が医者になったのは平成の時代のことなんですけれども今は多分そんなことないと思いますけども私ぐらいの時 平成ぐらいの時には大学病院の就職試験を入局試験っていうのを受けに行った時に教授から「うちは女医はいらないよ」って平気で言われました。
女性医師の誕生は世の注目を浴びました。 吟子は 女性が淋病にかかる主な理由に遊郭の存在があると考えました。 やはり社会の片隅で 非常に苦しんでいる人たちへの目というのを育児・看護の基礎知識から感染症の予防法まで女性が家庭でできる病気予防の知識を広めていきました。 吟子は 新たな女性の生き方をまさに旗振り役となって社会に訴えていきました。 吟子に続く女性医師 吉岡彌生。 1900年 東京女子医大の前身東京女医学校を設立。
だから周りの大人がちゃんと教えるとかということで 荻野吟子の人生を見てきたわけなんですけれども実はですね このあと ちょっと思い切った行動に出るということなんです。 大石先生 これは?吟子さんが再婚しまして その相手の人が同志社を出たクリスチャンなんですね。 どうですか? 荻野吟子の人生 見てきて最後に。