2014年、日本を代表する名優から、アーティスト、文化人、そしてお笑い芸人まで。 ばかやろう!アントニオ猪木のものまねでブレークした春一番。 消防ですか?救急ですか?救急車を、救急車を1台お願いします。 春一番、永眠。 朝起きたら、隣で帰らない人になってしまった?心の準備出来てないですからね。 今夜、春一番の妻、綾さんが、その闘病を初告白。 綾さんは亡き夫との思い出を乗り越えようと、2人で住んでいた家を引き払い、このワンルームマンションに引っ越した。
そして春は、個人事務所を設立。 未経験ながら、綾さんがマネージャーを務め、その懸命な営業活動で、少しずつ仕事は増えていった。 一方、当時の春は事務所を解雇され、そのうさを晴らすかのように、酒の量が増えてしまっている時期だった。 家族総出で綾ちゃん、綾ちゃんって、まねして、そんな春の優しい人柄ゆえの行動だった。 ダンカンさん、元気ですかー!っていうふうに締めてますけどね、春一番。 中華料理人、周富徳。 周富徳といえば、記憶に新しい姿が。 挑戦者、周富徳。
実は、エビマヨは彼が日本で普及させたといわれており、中華料理の定番となっている。 周富徳の最期のアンサーは、1943年、第2次世界大戦真っただ中の日本で、37歳で中華料理店の名店、聘珍樓の総料理長に就任。 見習い料理人の登竜門の意味もある、賄い作りのときでも。 こんなやつ、店のトップである総料理長である周が、直接、駆け出しの息子に教えることはなかった。 最後まで、父に認めてもらえるような立派な料理人になれなかった。 息子が修業中、総料理長としての立場から、直接指導はしなかった周。
本当におもしろい方で、カメラ目線がもうやっぱり、最高におもしろかったですから。 その息子が語った壮絶な最期とは1971年、矢沢永吉らとロックバンド、キャロルを結成。 バンド解散後は俳優業もこなすなど、マルチな才能を発揮。 その最期のアンサーは、息子に向けてのものだった。 死の数日前、大倉は、しゃべることすらままならず、ほとんど意識もない状態だった。 ことし4月11日、糖尿病による多臓器不全により、63歳でこの世を去った。
今までで一番うれしかったことは何?このあと、佐野の意外な最期のアンサーに。 ラーメンの鬼、佐野実が、亡くなる2日前、2番目もお前と出会えたこと。 同じこと何度も言わせんな!もう本当に、まさかこんなときに、妻は夫の遺志を継ぎ、オーナーとして、佐野が大切にした店を守っている。 その最期のアンサーは、佐野にとって人生をささげたのは、ラーメン以上に妻だったことを意味していた。 そんな蟹江敬三が、同じ役者の道を歩んだ息子に向けた最期のアンサーは。 落語家、桂小金治。