NNNドキュメント「戦争孤児たちの遺言 地獄を生きた70年」

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この番組のまとめ

誰が戦争孤児にした親を返せ人生を返せ戦争孤児の…今から70年前3月10日未明の東京大空襲アメリカの大型爆撃機B−29およそ300機が下町を襲った大量に投下された焼夷弾橋の上は逃げ惑う人が押し寄せ悲鳴怒号叫び…爆撃は深夜0時8分から2時間半に及んだ一夜にして推定10万人が命を落とした男女の区別さえ分からない東京・下町一帯は焼け野原と化した金田さんの家族は皆行方不明に3か月後母と姉の遺体は隅田川から見つかった妹は今も行方不明のまま幼い頃に父も亡くしていた金田さんは孤児になり親戚に引き取られた9歳だった金田さん

残飯をあさる他浮浪児が生きて行く手段は物乞いをすること中には靴磨きの商売を始める子供もいた自らの力でたくましく生きた浮浪児達その一方でスリなどの犯罪に手を染める子も…街にあふれる浮浪児は不良少年という目で見られ世間から嫌われて行った行政は強制手段に出た街にあふれる浮浪児に対し行政は強制手段に出た栄養失調でお腹が膨れあばら骨が浮き出るほどに痩せ細った姿自由を奪われた彼らは職員の目を盗み脱走を繰り返したボランティアで収容された子供達を慰問した…覚えてるのは子供達の顔だけなんです。

業平小学校が見えた字が「業平小学校」って。 東京大空襲で孤児となった草野和子さんは親戚の家で言われた言葉が忘れられない「うちには泥棒猫が3匹もいるのよ」…っていう言葉です。 養子に出された孤児もまた過酷な生活を強いられた学校には全然行かせてくれないんですよ。 その頃親戚の家に預けられた1歳下の弟から助けを求める手紙がたびたび届くようになった「武君小生の就職を探して下さい。

高裁も最高裁も敗訴戦争孤児ら空襲被害者の訴えは届かなかった東京都が建立した空襲犠牲者を追悼する碑内部には犠牲者名簿が納められている戦後50年以上たって遺族からの強い要望で作成が始まった記載される名前は遺族の申し出に基づいたものその数およそ8万人しかしプライバシー保護という理由で公開されていないしかしここはもともと震災記念堂すぐ隣に…間借りしてるわけですよ。