日本放送文化大賞グランプリ受賞「奥底の悲しみ~戦後70年、引揚げ者の記憶〜」

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この番組のまとめ

外地に暮らしていた660万の日本人は本土への引揚げを余儀なくされました。 当時 仙崎港には引揚げてくる女性たちのために聞いた事ないですか?特殊相談所とは? 特殊婦人とは?私たちは探りました。 あの… 病人やら 妊婦とかけがをした人は全部大勢の引揚げ者を寺に受け入れ病気の治療に当たった当時の様子がつづられていました。 新天地での成功を夢見て多くの日本人が海外へ渡りました。 海外に取り残された日本人はそれぞれが本土を目指しました。

かつて 大陸からの引揚げ者で溢れ返った港は 今「不幸なる御婦人方へ至急御注意!!」と始まる一枚のビラが配られていたのです。 被害を受けた女性たち特殊婦人を博多で引揚げを語り継ぐ活動をする…。 二日市保養所は引揚げ援護をする医師や関係者によって自発的に つくられました。 佐世保引揚援護局でも特殊相談は行われました。 佐世保友の会では先輩が活躍した70年前の引揚げの事が今も語り継がれています。

「昭和21年9月行方不明の父を残して私たちは出発しました」「その頃 満洲は もう肌寒く野宿の寒さと空腹で体は痩せ細っていきました」「たった1つのリンゴを私たち子ども3人で分け山口県美祢市に住む新田浩治さん78歳。 当時 傀儡国家といわれ事実上日本の指導下にあった満洲国。 しかし 敗戦間際満洲にソ連軍が攻め入ると状況は一変。

敗戦の翌年満洲から引揚げました。 日本語を教育するなど現地の人々を日本人化するための皇民化政策も進められました。 そういう理解が出来たんですよ殴られて初めて。 手榴弾による一家心中を目の当たりにした新田さん。 しかも ちょうど発育盛りで食べ物がないところに栄養失調で出来物が出来るんですよね。 私も 足のつま先から全部出来物が出来たんですよ。 そして だからその頃っていうのは もう内地にたどり着くまでにはあの当時で2歳… 2歳以下それから 65歳…60過ぎとったのう もう母親がソ連兵の被害に遭った枌谷さん。