ミスター笑点 桂歌丸師匠追悼特番

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この番組のまとめ

今月の2日、落語家、桂歌丸さんが旅立たれました。 日本を代表する落語家として、そして、日曜夕方のテレビの顔として、日本中から愛された桂歌丸さん。 歌丸さんが旅立ってから10日がたつわけですけれども、この10日間はどんな気持ちで過ごされたんでしょうか?とにかくね、亡くなられてびっくりしちゃってね、しばらくもう、人と会うのも嫌だし、それから聞かれると説明しなくちゃいけないのも嫌だし、だから、僕はコメントを、新聞や放送の、一本もやんなかったんです。

まずは歌丸さんが笑点メンバーに入るまでの人生、ご覧いただきましたけれども、昇太さん、笑点に入ったことで、もちろん運命が大きく変わったというのはあるでしょうね。 それをつかむかどうかなんだっていうことを、先輩に言っていただいて、だからやっぱり、小遊三師匠、歌丸師匠が落語から離れた時期があったんですね。 きのう、横浜市の妙蓮寺で、歌丸さんの告別式が行われ、著名人を含め、数多くの方々が歌丸さんとのお別れに訪れました。

ただ円楽さん、告別式、本当に多くの方が歌丸さんへの思いというのを伝えてましたね。 半世紀、笑点に出演し続けた歌丸さんは、いつしか、こう呼ばれるように。 そして、番組開始から4年後の1970年、3代目の司会者に、当時、多才な答えで、1983年、先代の圓楽さんが司会に就任すると、歌丸さんは回答者のリーダーとして、番組を引っ張っていきます。 一番最初に手を挙げて、分かりやすい答えを言うのは、歌丸さんが始めました。 生前中は世間から腹黒い、腹黒いといわれていた、焼け死んだ楽太郎師匠にささげて歌います。

そうしたらね、楽屋で、のは、歌丸師匠なの。 それで、私の腹黒いっていうキャラを作ったのは、うちの師匠と歌丸師匠なんだから。 あの答えやらしたのは歌丸師匠ですから。 円楽の襲名披露を寄席で全部やろうと言ってくれたのも、歌丸師匠だもん。 もう旅行会でもそう、歌丸旅行会っていうのがあって、そこへ私はずっと参加してると、ずっとそばにいてね、じゃれてんの。 ミスター笑点、歌丸さんの秘蔵映像集。 豪華客船、クイーン・エリザベス2で、妻、冨士子さんと夫婦水入らずのひとときを。

きのうから都内の寄席でトリを取ってまして、皆さんと最後まで一緒にいたいんですが、たぶん落語の仕事を休むと、歌丸師匠は一席でも落語を多くちゃんとしっかり務めないといけないよって、おっしゃると思いますんで、残念ですけれども、僕たちの歌丸師匠への恩返しは、一席でも多くたくさんの人に落語を聞いてもらうことだと思いますので、行ってまいります。

歌丸師匠、よろしくお願いします!ちょっと遅れて好楽も。 おっ、小遊三さん。 笑点の司会に、歌丸師匠の冨あはは、超うける、あはっ、超うける。 歌丸師匠、お疲れさまでございます。 山田君、気持ちが悪いから、全員の全部持っていきなさい。 小遊三さん、山田君、たい平さん、皆さんにお任せをいたしますんで、決して笑点というものをなくしてはいけないと思ってます。 その責任が皆さん方にございますんで、背負ってきた笑点の大看板を後進に預け、笑顔で番組を去った。 円楽さん、ただ一度流された涙だったんでしょうか?歌丸師匠がね。

いやぁ、番組終わったあと、今流れてた映像のように、笑点をなくしちゃいけないんだっておっしゃったときに、本当にね、ちょっとすごいこう、重いものをね、ちょっと感じたんですけど、歌丸師匠はすぐ、僕の所に来て、昇太さんらしくやってくれればいいんだからねって。 レーティングを含めてすごくね、気にしてね、一喜一憂しながら、50年以上続いたっていうのは、諸先輩のおかげですし、そして、歌丸師匠が今の形を作って、昇太さんにぽーんと渡した見事さ。 大喜利の神様、歌丸さんの改革。

こうして、大喜利の神様の手によって、昇太さんは国民的結婚できないキャラを手に入れました。 しかし、貪欲に笑いを求める大喜利の神様は、ここに目をつけました。 大喜利の神様は、毎週、あの手この手で笑いを起こします。 大喜利の神様は、座布団運びを人間扱いしないことで、毎週、笑いを生み出しました。 大喜利の神様、歌丸さんの改革。 続いては全員の座布団、全部持ってって。 い!回答者からの容赦ない攻撃に、神様は全部持ってってで応戦。 ついに発動、山田君、全員の全部持ってって。 山田君、全員の全部持っていきなさい。

小遊三さん、全部持ってっちゃって。 なかなかないですよ、全部持さあ、笑点を卒業した歌丸さんですが、落語家人生の集大成として、桂歌丸の落語を追求することにすべてを注いでいきます。 実はおよそ2年、笑点のカメラが追い続けた落語家、桂歌丸の姿。 落語を続けるのが自分の責任。 与えられた使命に気付き、落語に一層力を注いでゆく。 歌丸が自分で歩くこんな姿も、今となっては懐かしい。 10人余りが落語を披露する寄席で、欠かせないものがある。 日本人だったら、日本語をはっきりとしゃべれ。

ただ、そんなふうに落語にしがみつく姿を、客はどう見ているのか。 博多・天神落語まつりに出るためだ。 団体の垣根を越え、東西のはなし家が一堂に会する落語会。 しんちょう師匠があまりに美しく、あっという間に逝かれて、談志が最後は声を失い、圓楽師匠は再起をかけてやったけれども、やっぱり引退しますという、それぞれの亡くなり方をした中で、今この状況でまだ落語をやるときには、命の炎を燃やし続けていられるっていう現実を見せてくれた、僕らにとっての憧れの世代の師匠は歌丸師匠だけじゃないですかね。

冗談で勢いをつけ、落語まつ下に鍋があったの、気がつかないもんですから、こん中へ片足をずばって、あつっ。 笑福亭鶴瓶もモニターから目を離さない。 入退院を繰り返し、いやおうなく意識してしまう人生の残り時間。 だからこそ、一切を落語にささげようと腹をくくった。 落語は、国立演芸場で45分にわたる熱演だった。 15歳で落語の世界に入って66年。 牡丹灯籠をやったって、かさねがふじだってできるんだって、医者に言ってやれって言ったんですよ。

大1貝から歌丸師匠と友に、笑点に出演されてきたこん平師匠からのことばでした。 三平さん、いかがでしたか?うちの師匠は、今、病と闘っていますけれども、いつも歌丸師匠の話になると、笑顔になるんですよ。 一度もホテルで朝食を食べたのを見たことない、歌丸師匠と一緒に食べながら、芸談をしたかったなと、これが私のずっと追っかけてた夢だったんですけど、最後までかなわなかったですねぇ。