独占!浅田真央 誰も知らなかった笑顔の真実

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この番組のまとめ

浅田真央 2回目のオリンピックが終わりました。 でも、だからこそ真央は挑戦することを 決めたのです。 困難を切り開いて進んできた 真央のスケート人生。 私があのプログラムで 表現したかったのは真央の人生なの。 自分の弱点を 誰よりも知っていた真央はリスクを承知で スケーティングの大改造に取り組みました。 大目標の ソチオリンピックが終わって少し時間がたちましたけれどもはい。 清楚で物静かなイメージがある 真央ですが実際の彼女は、とことん芯が強く ちょっぴり頑固。 真央は、その挑戦の 真っただ中にいました。

真央は ソチへの準備を進めながらスケート教室や アイスショーの出演に追われていました。 23歳、エースとして臨む ソチオリンピック。 真央は、ジャンプの初歩 シングルジャンプから練習を始めました。 特に光ったのが トリプルアクセルからのコンビネーションジャンプ。 シニアデビュー戦 真央は、見事な演技を見せ2位に食い込みました。 トリノオリンピックを 目前にした大会で前代未聞の出来事が起きました。 年齢の規定で オリンピックに出られない真央が優勝してしまったのです。

やっぱりジュニアのころから ずっと真央さんのことを見て そして支えていたのはお母さんだと思いますけども どんな存在でしたか?本当に毎日 ずっと一緒でしたね。 だから、私にとって オリンピックで、真央がまずは、特に指示をせず 真央の好きなように滑らせるのです。 これまでに ミシェル・クワンなどの金メダリストを育てた ローリーさんは真央の繊細な内面を芸術的に 表現しようと考えていたのです。 真央はフィギュアスケートをやめようと思っていました。 ショートとフリー 計3度のトリプルアクセルを成功させた真央。

トリプルアクセルに失敗。 アスリートとアーティストロシアにもチーム真央の 大切な人がいました。 しかし、この年、本番で 成功させたトリプルアクセルは6回中、半分の3回。 元世界女王、全盛時に 圧倒的な強さを誇ったそして、成長期が ジャンプに及ぼす影響は大きいといいます。 苦しみの中 トリプルアクセルにこだわり続けた真央。 トリプルアクセルを跳べるのはそれなのに得点が低すぎるのよ。 しかしトリプルアクセルの 成功率は上向きませんでした。 どうしても、うまくいかない トリプルアクセル。

すごく悔しい思いもあったので それを多分、真央もわかっていたと思ってて。 キム・ヨナというライバルが これもジュニア時代から ずっとでしたけども。 ソチオリンピック終わってから 何か話されました?はい。 バンクーバーオリンピックの帰りの飛行機で もう次のソチの話をしてるみたいですけど そうだったんですか?そうですね。 そのときは多分ジャンプを見直したいと 思ったんですよ。 真央がスケートを始めて 15年以上。 真央がスケートの大改造を 始めた直後二十歳の演技。

この大会、真央は トリプルアクセルを跳びませんでした。 真央がカナダでの大会に 出場していたときその知らせは届きました。 真央は全日本選手権を 休みませんでした。 帰国した真央は 佐藤コーチに告げます。 真央は毎年のようにこのリンクを訪れています。 真央はこのリンクを訪れました。 ローリーさんは真央の様子から私もパニックになりかけてどうすれば真央を助けられるのか 心の底から悩みぬきました。 真央は、ローリーさんの家族や 姉の舞と一緒にカヌーやテニスをして 過ごしました。